2009年3月27日金曜日

倉敷の酒場で。


その小さな飲み屋の名前は既に忘れてしまった。

倉敷の駅前の一番街というところだったと思う。小さなアーケード通りの店だった。店の外に「カレイの煮付け」とあったので、地元瀬戸内の魚かと思い、それに惹かれた。カラカラとスライドをあけて、店の中を覗いた。ちょうどコの字型にカウンターがあり、その奥に女性二人が立っている。

「1人ですけど、大丈夫ですか?」

「いらっしゃーい。どうぞー」。

語りかけるような、元気な明るい声。東京のとはやはり違う。さっと狭い店の中を見回すと、5〜6人が既に飲んでいたが、真ん中の席が2つ空いている。左には、夫婦らしき2人が。右隣にはサラリーマン風の3人が座っていた。3人のうち、すぐ右隣の人がタバコをふかしていて、その煙が椅子にかけるやいなや、すぐ目に入ってしみた。タバコの煙は好きではない。「ああ、しまった」と一瞬思った。ふとみると、タバコの箱がおいてあったが、どこのタバコか見当がつかない。

コの字型のカウンターには、大皿が4つ5つ並んでいて、そこに料理が盛ってある。どうやら、この中から選ぶシステムのようだ。多分そこから1人分をとって、暖め直してから出すのだろう。確かに、見てみると、カレイの煮付けのような皿もある。しかし、どれもこれも、見るからに、家庭料理。この2人でつくったんだろうなあ、と思わせる皿だ。求めていたものはこれだ、という思いと同時に、何とも言えない不安と後悔に一瞬襲われた。どうみてもすごい旨いものには見えなかったからだ。

「お飲物、何にしますー?はい、これおしぼりです」。

娘さんの方がおしぼりを出してくれた。母親と思しき方は少し奥に入っている。娘さんの方は一体いくつぐらいなんだろうか。最近東京ではあまり見ない真っ黒な黒髪で、どうだろう、30歳近くぐらいだろうか。やっぱりとても苦労している感じだ(あとで25歳だと分かった)。

こんなことを考えていた間に、ちょうどその日の午後美観地区を歩いていたときに酒蔵らしきものを見かけた記憶が思い出された。森田酒蔵だっただろうか。

「えー、ビール。あ。やめた。そうじゃなくて、ここの地酒がいいですね。地酒をお願いします」。

その地酒はガラスの徳利みたいなボトルで出てきた。おちょこもガラス。青い模様が少し入っている。

「えーと。じゃあ、カレイの煮付けと、このタコの和え物みたいなの、ください」。

今回の休暇で倉敷に来たのには特別の理由があった訳ではない。どちらかと言えば、大学時代からの知り合いでヨーロッパでも一緒だった友人を訪ねにいく、という明確な目的のあったのは、むしろニューヨークに行く方だった。しかし今回どうも気が乗らず、旅の準備もせぬままダラダラと休暇の直前まできてしまった。しかしずっと東京に居るのも、ということで、思い立って来たのが、この瀬戸内だった。しかし倉敷はこれまで何度か行こうとして結局行けずにいたところではある。昨年秋に徳島県の祖谷を旅行した時にも、前日岡山から備前焼の里、伊部に行った帰りに倉敷へ、と思いながらも時間切れで行けなかったし、その後、年末に仕事で水島に行ったときにも、あともう少し足を伸ばせば倉敷、と思いながら、結局素通りしていた。だから「今度こそ」という思いが少しはあった。

昨年まで4年間ヨーロッパはオランダのアムステルダムに住んでおり、オランダの田舎の美しさに魅了された。もっとも、東京に比べればアムステルダムも大いなる田舎。東京に戻る、と考えただけで、早くもストレスを感じるぐらい、アムステルダムは穏やかで、人間的な規模の街だった。「日本に帰ったら、田舎のいい街を探してみよう」。そういう思いがとても強くなっていた。

その中で今回倉敷を選んだのは、昔ながらのきれいで趣のある街並を見たかったからだ。それと、江戸時代、徳川幕府の御領として年貢米の集積地となったことで栄え、豪商を生み出したこの街の歴史と現在をこの目で見、そして考えてみたかった、というのもある。倉敷と言えば、大原美術館で名が残る大原財閥の出所。大原財閥によって、倉敷紡績、クラレ、中国電力、中国銀行、など蒼々たる企業が次々と興されたのであり、大原財閥は当時「倉敷一」のレベルを遥かに超えていた。

時は幕末から明治維新にかけての混乱期。江戸の経済が、米、醤油、酒造、そして呉服、などの一次産業を中心に潤っていたのに対して、この頃一気に台頭したのが、紡績業。まさに商業から工業へ。当時、日本経済全体のうち紡績産業の占める割合は何と7割にも達していたという。これはものすごい割合である。一つの産業がここまでのウエイトを占める例は、後にも先にも、この紡績以外にはない。現代にも残る多くの企業はこの時代に、紡績産業を中心にして、生まれたケースも多い。世界のトヨタも、その起源は豊田紡織であるし、泣く子も黙る日本の総合商社も、ニチメン(日本綿花)、トーメン(東洋綿花)など「綿」を紡績工場におさめる商売が流行った。尚、トーメンとは三井物産の綿花部が独立した会社である。

しかし、紡績業の台頭というのは18世紀以降の世界的現象である訳で、考えてみれば、フランスとの七年戦争に勝利して、国際政治においてヘゲモニー(覇権国)の地位を確立したイギリスが、リバプールの奴隷貿易によって集積された気の遠くなるほどの莫大な資本の上に、マンチェスターで花開かせたあの産業革命、あれもやはり紡績業が中心だった。そう考えると、日本における紡績業の台頭自体は不思議なことではない。しかしいずれにせよ、倉敷の大原財閥というのは、そのような時代にあって、現代にも残る大企業をいくつも創立させたとてつもない大富豪であったということは間違いない。

倉敷の街はJRの駅から南に中央通りを歩いて行くと、10分もしないうちに、美観地区の入り口に到着する。交差点を左に入ると、一瞬映画のセットかと思わせる雰囲気。少しいくと倉敷川が現れ、この両側に大原家住宅と大原美術館がそびえ立つ様は圧巻である。しかしヨーロッパの歴史ある街で受けるような圧倒される感じや怖れを抱くようなものはない。きれいでもの静かな街並といった印象だ。

倉敷の美観地区はこの倉敷側に沿ったエリアと、川に平行してもう一本有名な通りがあり、これが本町通りで、歴史的にはこちらの方が古い。倉敷川沿いに屋敷を構えていたのは、当時の「新興勢力」であったようだ。この隣接する二つのエリアが互いにしのぎを削った過去が思い偲ばれる。もちろん勝利したのは大原財閥の新興勢力の方だった筈だ。

この倉敷の美観地区、これが実は非常に狭い。すぐに全ての通りを歩けてしまう。軒を並べる白壁の美しいお屋敷を見るのは楽しいし、また表札などからして、現在でも誰かが住んでいることを思うと羨ましい気持ちにもなる。しかし全体として受ける印象としては、この美観地区は見事なまでに、圧倒的に「観光地」なのであり、人々の延び延びとした豊な暮らしがそこにある、というものではない。この辺はオランダと大きな違いがある。オランダでは、アムステルダムでも、ユトレヒトでも、ライデンでも、そこに大勢の観光客が集まる場所にあっても、まず現地の人々の豊かな暮らしがある。天気がよければ、運河で優雅にボートに乗って、古い教会を眺めながら、ビールを飲んでいる。17世紀に遡る由緒ある計量所の立派な建物は、オランダではどこにいっても、今はカフェだ。その場所を人々が日常的にゆったりと使い、エンジョイしている。そういう風に、何気ない日常生活の一部に、美しいものが贅沢なほどあふれている、そのことは疑いなく、質の高い、豊かさだと思う。そして、そういう地元の人が楽しんでいるのを見て、観光客も「ここに住めたらいいだろうなあ」と思うものだ。彼らオランダ人にとっては、まさに、そのような楽しみを実践できることがそこに住む大きな理由であり、もし過去の歴史をショーケースに入れたまま、大事に外から眺めるだけのような街なら皆出て行ってしまうだろう。

それに比べて倉敷の街はどうだったか、というと、日本の他の街に比べて、特別に倉敷の人が豊な暮らしをしている、という印象は今回は残念ながら感じることができなかった。もちろんあのようなきれいな美観地区がある、というのだけでも素晴らしい。しかし美観地区は狭い。そして美観地区の外にでれば、もはや倉敷にいるのか埼玉にいるのか分からない。大多数の人は、そのようなエリアを中心に生活している筈だ。

「地方の暮らしは東京よりも豊かな筈だ」。

こう思っているのは私だけではないだろうが、特に自分にはこの幻想が強かったのかも知れない。倉敷にくるにあたって、過大な期待を寄せていた可能性もある。それはアムステルダムが、パリやロンドンに比べると地方色があり、田舎街だったからだろう。しかし素晴らしいアムステルダムの街が田舎街であるからといって、全ての田舎街が素晴らしい訳ではない。しかし日本の田舎には、アムステルダムに匹敵する豊かな街はあるのだろうか。。。。

「お二人はどちらからいらしているんですか?」

おちょこを置いて、左隣の夫婦に聞いてみる。

「三原です」。

「三原ですか。じゃあ、わりと近いですね」。

「この人がここで仕事してるんですよ」。

「三原はいいとこですか?」

女性は無言で顔を歪めて横に振った。

「はーい、これから歌を歌いますよー、この娘が」。

少し奥にいた母親が前に出て来て語りかける。カラオケでもあるのかあ、とお客。ないわよー。アカペラかー?よおーし、と場がにわかに盛り上がる。さっきまでタバコをふかしていた右隣の「加山さん」が声をあげて場を盛り上げる。「加山さん」というのは、ニックネームで、三原の男性が「加山雄三にちょっと似てるんじゃない〜」といったから、この晩は加山さんで通っていた。一方、三原の人は、「二宮さん」。これは、スポーツジャーナリストの「二宮清純」に似ている、と自分がいったのが、おおいにウケて、「おう、そうだ、そうだ。二宮さんだ!」と皆が喜んで呼ぶようになったためだ。ついでにいうと、加山さんの右隣の人は、「ムツゴロウさん」。言われた本人は不満そうだったが、またまた自分が調子に乗って言ってしまった。更には、そのサラリーマン風の3人を飛び越え、コの字型の一番先頭の奥に独りで飲んでいたおじさんの方を見て呼んでみた。「あれ?あそこにさんまさんが居ますよ。ねえ、さんまさん!」。その人がこちらを見て、照れながらにこりとすると、これがまたさんまによく似ている。皆、大爆笑。「ほんとだ、ほんとだ、こりゃ、面白い。さんまさんだ、さんまさんだ!」。皆、勢いがついてきた。すると、「じゃあ、これはどう、これは」。とムツゴロウさんが、右に座っているもう1人の部下らしき人を差す。「いいんですか、言っちゃって?」「いいよ、いいよ、言ってみてよ」。では、、、

「豊田章男!」。

「あ。いいなあ、いいじゃない。ずるいよ。豊田章男」。ムツゴロウさんがひがんでみせる。大企業のサラリーマンと思しきこの方々からして、どこの馬の骨かも分からぬモノから、突然、世界のトヨタの社長に似ていますよね!、と言われるのは本人も悪い気はしないようだ。しかし、それにしても本当によく似ている(笑)。「しかし、あなたも幅が広いねえ、二宮清順にさんまさんに豊田章男ときたかあ。インテリだねー」。

こうして、まだ日本酒のボトルが半分も空かないうちに、既に殆どの人の名前が決まっていた。そんなところに歌が入ったものだから、いよいよ活気づいてくる。三原の人が何か言うと、「お。さすがー、二宮さん、いい解説するねー、おい!」。「加山さんも一曲いったらいいんじゃない?えー。はははは」といった具合に、大いに盛り上がっきた。

「よし、あれいってくれ、あれ!」「誰よ?」「石川さゆり!」

加山さんが身を乗り出す。このお店の子の歌は最初「島唄」から始まったが、見事な歌いっぷりで、皆思わず聞き入ってしまう。歌が巧い、というのか、とても真っすぐな感じが歌を通して伝わってくる。

「はーい、ワンツースリーフォー♪」

母親がいつもの調子で指揮者のように手を小さく振りながら音頭を取る。これがことごとく歌のリズムにあってないのが少し気になっていた。

「隠しきれない、移り香が〜♬」。

とはじまると、皆「おおおおー!!」と手を叩いて、大喜び。殆どクライマックス。

「何がああっても、もういいの〜♪」(イエーイ!!!)

「あなたと、越えたい〜♪」

ここで加山さんがばっと立ち上がって、一緒に熱唱した。

「天城〜越〜え〜♬」

「わわああわー!!!!」

「いやー、最高。いいねー」。

僕はねえ、大企業の営業部長やってるんだ。今回は出張で倉敷に来てるんだけどね。いつもは、全世界でビジネスをやってるんだよ。自分にさっきそう語っていた、加山さんが、最高潮に達した。

「この子はねえ、あたしゃ、3歳の頃から、ヤマハ音楽学校に入れたんだからね。3歳だよー、本当に。よかったよー」。ママさんが得意そうに皆に向かって話す。少し口を大きくあけると、右の方の前歯がないのが、目立つ。

「この漬け物食べない?おばあちゃんの手作りだよ」。「じゃ、あたし頂くわ」と三原の人。

どうやら、女性3代でこの小さな店をやっていることが想像される。おばあちゃんの娘がこの前歯のないママさん。そしてこのママさんの娘さんが、真っ黒な髪のこの歌い手さん。本当に小さな店だ。25歳のこの子は毎晩、ここで、こうして歌を歌っているのだろうか。しかしそんな境遇を嘆いている様子はかけらもない。

「あ、次は、私の好きな歌を歌ってもいいですか?」

これまでリクエストばかり受けてきたこの娘が、今度は自分から曲を言ってきた。

「ヨイトマケの唄」。

「えー?いや、知ってますよ。美輪明宏さんの歌でしょ」

「ねえ、かあちゃん、早く早く。あれやってよ。ワンツーってさあ」。

さっきまでノリノリで娘を自慢していたママさんが、今度は表情変えて、なかなか手を振ろうとしない。ようやく、何度か娘に言われて、小さな声で、渋々いつものワンツースリーフォーをすると、すぐに引っ込んでしまった。

その唄は、こうやって始まった。

「今も聞こえるヨイトマケの唄 今も聞こえるあの子守唄〜」

「子供の頃に小学校でヨイトマケの子供きたない子供と いじめぬかれてはやされて くやし涙にくれながら 泣いて帰った道すがら 母ちゃんの働くとこを見た 母ちゃんの働くとこを見た〜」

「帰って行ったよ学校へ 勉強するよと云いながら 勉強するよと云いながら〜」

「どんなきれいな唄よりも どんなきれいな声よりも 僕を励ましなぐさめた 母ちゃんの唄こそ世界一 母ちゃんの唄こそ世界一〜」

となりの三原の女性を見ると、すでにハンカチで涙をふいている。ママさんはカウンターに腰をどっしりおろしてしまって、涙が止まらず、仕事どころではない。

「俺も、九州出身なんだけど、親に土方やってもらって、学校いかしてもらったんだよ」。加山さんの目にも涙が浮かんでいる。

さっきまであんなに盛り上がっていたのがきゅうに静かになった。そして一人、二人と帰り始めるお客さんたち。二宮さんも立ち上がると、加山さん、豊田さん、ムツゴロウさんも立ち上がった。そして、皆お互いに握手をして、店を後にした。自分も最後に一人残るさんまさんと握手をして、店を出た。

外に出てみると、改めて寒さがしみる。この季節なのに、ぐっと冷え込んでいた。ふと空を見上げると、夜空には星がたくさん。ホテルまでの道すがら、久しぶりに星座を探しながら、地酒でほろ酔い気分で、歩いて行った。

「しかし、一体なんてことだ」。

ちょっと前まで、オランダの運河のボートの事とか、豊かさの事とかを考えていたのが滑稽にすら思えてくる。あの二人は、毎晩ああして歌をうたって、生活してるんだ。こうして苦労しながらも頑張っている人達のことを決して忘れてはいけない。それにしても、あの母と娘の愛情に胸をうたれる。

ホテルに入る直前に、もう一度空を見上げてみた。オリオン座がかすかに滲んでいた。