2009年4月13日月曜日

旬の魚 - メバル

今週はとても天気のいい週末となった。

今日は午前中から昼にかけて友人の結婚式の打ち合わせで新宿に。ウェディング写真の打ち合わせで、自分の知っているカメラマンを紹介することになっていた。二人とも学生時代からの親友同士で、とても感慨深いものがある。どんな結婚式になるのか今から楽しみだ。

打ち合わせが終わると、そのまま近くでロシア語のレッスンを受けた。最近少しさぼっていたので、かなり忘れてしまっていたが、今日は新しい先生がついてくれて、この先生の教え方が非常によく、また一段とやる気が出てきた。

さて、ロシア語のレッスンが終わって、お腹がすいていたので近くのスーパーに買い物に。見ると、春から初夏にかけてが旬の魚、メバルが並んでいた。新潟でとれたもので、見るからに新鮮。メバルはカサゴに似た魚であるが、違いは何と言っても目が大きいこと。名前の「メバル」は漢字で書くと「目張」であって、まさに目が張っているところからきている。メバルには、黒メバルと赤メバルがあるが、色は違っても同じ魚。生息水域が深くなると、色が赤くなる(この特徴はカサゴも一緒だ)。今日のメバルは赤みがつよいので、深い水域で捕れたものだろう。深いということは水温が低いということであって、その分身がしまっている、ということだ。メバルは塩焼きにしてもいいが、代表的なのは煮付け。大きさが20cm程度の魚なので、おろさずに姿煮にすると皿が立派に見える。

早速、エラとワタをとって、煮付けをつくってみた。このように姿煮にするときには、最後皿に盛るときに頭を左に向けるものなので、ワタをとるには身の右側に包丁を入れて抜くのが定跡。これを隠し包丁と言う。そうすると、皿に盛ったときに跡が見えない。

今日は冷蔵庫にエノキとエリンギが残っていたので、これらを一緒にいれてみた。味付けは全く目分量であったが、酒、醤油、みりん、水。若干薄味だったが、身がしっかりしていて、とても美味であった。

2009年4月5日日曜日

尾道の展望台にて

「あら、戻ってらしたの?これから英語のレッスンがあって、先生がくるんだけど、よかったら一緒にいかが?」「先生は、若い女の子よ」

倉敷を出て次に向かったのは尾道だった。JR山陽本線のプラットホームに立って暫くすると、「いい日旅立ち」の曲に乗って、電車がホームに入ってくる。乗り込むと、瀬戸内の豊かな陽が差し込む車内は、ぽかぽかで椅子に座るやいなや、すぐに眠くなってきた。前の列には地元の高校生らしき3人乗っていて、大きな声で話をしている。

「聞いてよ、私の姉ちゃんさあ、今台湾人と付き合ってるんだよ。やばくない?アメリカに居るんだけど、台湾人が彼氏なんだって。陳さん、らしんだけど。それってさあ、もし結婚したら、姉ちゃんの名前、「陳さとみ」ってこと? 絶対いややわ、それ」。

岡山駅から倉敷に向かったときは、隣のブースにアメリカ人が二人乗っていて、やはり大きな声で話をしていたことを思い出した。この車両に居るのは、殆ど皆地元の人に見える。アメリカ人はおろか、大阪人すら居そうにない。いよいよ旅情が湧いてくる感じだった。

尾道に行くのは、はじめて。ガイドブックは読んだが、街のイメージは何もない。ただ、のどかな瀬戸内の雰囲気を感じられることを期待していた。

尾道は、瀬戸内海の尾道水道に沿って、東西に細長い街だ。その真ん中をアーケードの商店街がつーっと通っている。そのすぐ北に平行して道路が一本と線路が走っていて、その北がもう小高い丘。ここに神社仏閣も多く並んでいて、昔ながらの民家も軒を連ねている。「坂の尾道」、はこの部分から来ている。

その尾道の坂道を登り歩き、千光寺に行ってみた。眼下に見下ろす尾道水道の眺めはなかなか。しかし、この日はとにかく寒かった。これはたまらんと、せっせと坂を降り始め、尾道ラーメンを食べて、さっさと向島の宿に戻ることを決めたのだった。

この宿は以前から知っていたところではなく、インターネットで検索してヒットしたB&B。ここにした理由は場所が「向島」という一応「島」にあったからで、尾道を全く知らない自分が勝手に東京の自宅で想像したのは、瀬戸内ののどかな漁師の島みたいなものだった。

ところが、着いてみると向島の印象は全く違っていて、目の前に船舶の修理工場があって、工業的だし、環境も正直いいとは思えない。早くも後悔しそうになりながら何でもない住宅街を荷物を持って歩いていくと、漸くこのB&Bが現れたのは、古い床屋さんを右に曲がって行ったところだった。

「あれ?この家だけ、雰囲気が違う」。

まず家が大きい。確かにB&Bをするぐらいだから、大きくないと話にならないので、考えてみれば驚くには値しない筈なのだけれど、それにしても、こんな街並の中で、こんな大きい家。

「何をやってる家なんだろう」。

出迎えてくれたのはおばあちゃんで、おかみさんはその日は東京に行っていて、夜戻るのだとか。いろいろ話を聞いてみると、お孫さんが3人いらして、大学等で外に出るようになって部屋が空いたので、B&Bにしているらしいことが分かった。

「今日は丁度東京の大学に行っている孫の卒業式なんですよ」。

「お孫さんは、東京でどちらの大学に行かれていたんですか?」

「東京大学です」。

(一見何でもない田舎にぽつんとある大きな屋敷。しかもお孫さんが東京大学となると、この辺の名士の家に違いない...)。

のっけからそんな風にこの家に対して関心の度合いが高かったので、ちょっと寒くなるや、尾道観光はそっちのけで、この家の人といろいろ話をしてた方が面白ろかろう、そう思ったのである。

宿に帰ってみると、そこのおかみさんがちょうど英語のレッスンを受けるところだったのだ。

「じゃ、ぜひ」。

全く躊躇いもなくこう答えたのに、おかみさんも一瞬驚いたようであったが、おかみさんより先にさっさと下に降りて行ってしまった。

「こんにちは」。

自分はてっきり外国人かと思っていたら、日本人の女性だったので、こっちも一瞬驚いた。しかも若い。聞いてみると、この先生は、もともと生まれは向島だが、お父さんの仕事の関係でハワイで育ち、その後パリの大学に行って、先日卒業したばかりとか。英語は殆どネイティブで、発音は完全なアメリカ式だった。

この日のレッスンのテーマはこの先生が大学で国際政治を学んでいたこともあり、英語の初級者向けのテキストには全くもって不向きであったが、ソマリアへの自衛隊派遣の記事を読む、というものだった。この記事を先生と自分で音読して、その後おかみさんにも読んでもらい、一緒に発音を勉強したり、意味を追って行ったりしたあと、ソマリアの海賊問題の背景や、アデン湾の地政学的重要性などについて話をしたりした。まさか尾道まできて英語のレッスンに立ち会えるとは思ってもおらず、思いがけず、楽しい一時となった。

それにしてもだ。そもそもこの先生は本来は英語の先生でも何でもない。ハワイで育ってパリの大学を出た、いわば「洋行」戻りの人なのである。そういう人を地元で見つけてきて、週に一度家によんでお茶をしながら、英語の勉強という名目のもとにいろいろお話をして見聞を広げる。これは言ってみれば、「サロン」を開催しているようなものである。その姿勢たるや、江戸の大名かパリの貴族さながらである。こういうことをしようとするアイディアや好奇心というのは、自然と身に付くものではない。これこれそがこの家の「育ち」だろうと思った。このおかみさんの息子さんが東京大学に出られるのも頷ける。

さて、このレッスンが終わると、おかみさんは先生を家まで送りに出て行ったが、自分はひとりリビングでストーブにあたっていると、今度はこの宿のおばあちゃんが出てきて、家のアルバムをもってきて見せてくれた。どれもいい写真だ。聞くと、既に亡くなられたが、このおばあちゃんの旦那さんが、文化的な人で、映画造りなどもやっていたが、写真家としても活動していたのだという。まだまだ海外旅行などが一般的でない時代に、船でヨーロッパにわたって映した貴重な数多くの写真や、広島の原爆の後を追った写真など、何冊ものアルバムが出てくる。
「これは、あの人が、〜にいったときに撮ったものです〜」。

といった調子で、一枚一枚解説付きだ。写真もさることながら、私はこのおばあちゃんが一枚一枚を解説できるというのは一体どういうことだろうか、と思った。写真家というのは写真を撮りに行くときは、独りで撮りに行くものだ。このおばあちゃんは決してその場に居た筈がない。ということは、写真ができた後に何度も何度も話を聞いていた、ということだろうか。それにしても、これだけ多くの写真である。私はこのおばあちゃんがアルバムのページをめくる度に、昔あったであろう、おじいちゃんとおばあちゃんの会話の様子を想像しながら、解説を聞き入ったのであった。

「あら、おばあちゃん、まだやってるの〜。すみませんね〜」。

おかみさんが帰って来た。

「いいんですよ。私も写真を見るのが好きですし、こんな貴重な写真なんですから。観光よりもこっちの方が全然面白いです」。

「あら、そうなの。じゃあ、こんな写真もあるわよ」。

といって持って来てくれたのは、昔からの家族の写真であった。写真家のおじいちゃんの前の大おじいちゃんの写真もある。しかも、何と日露戦争前後の時代に、アメリカに渡っているのである。

(尾道の豪商の末裔なんだ...)。

翌日の朝、朝食を頂くと、ぼちぼちチェックアウトの時間が近づいていた。鞆の浦によって帰る計画で、宿の人にも行き方を聞いていたのだ。荷物をまとめて、お支払いをすませて、ブーツに足を通す。

「向島、反対側もちゃんと一周して見られました?」

「今回は残念ながらその時間はなかったですね」

「では、今からドライブしませんか?島を見せてあげますよ」。

おかみさんからの思いがけない提案だ。

「あんた、何を、お客様はこれから鞆の浦にお出かけになる、言うてるときに」。

おばあちゃんがおかみさんを見る。

(鞆の浦はまたこの次だ)。

そう決めると、おかみさんのローバーに乗って、海岸沿いに出た。昨日の寒さとは打って変わって、天気がいい。島の反対側に来てみると、こっちは尾道水道側とはうってかわって、自然が美しく、工業的なものは何もない。ヨーロッパ人が大喜びしそうな、リゾート地である。

「私の好きな展望台にお連れしましょう」。

そういうとローバーは坂を駆け上がって、みるみる小高い山を登って行く。

「どうです?きれいでしょう?」

ついたところは向島でも有名な、しかしそれほどよく知られている訳でもない穴場的なスポット。展望台があって、向島の周囲が一望できる。そして、しまなみ街道が遠くに見渡せて、天気がいいと、四国の影が見えるところだ。

「いや、本当に素晴らしい環境ですね」。

それにしても何だろう。これだけの環境資源に恵まれたこの島なのに、全体的に寂れている。海岸もとても美しいのに人の気配が殆どなく、見たのは老人ホームだけだ。どうしたら、ここにもっと人が集まるのだろう、いや、集まらなくてもいい、でももっと豊かにこの土地をエンジョイしてもいいのではないだろうか。ヨットやウインドサーフィンなどのマリンスポーツ。スキューバダイビング。釣り、そしてビーチでのバーベキュー。ビーチに面した通り沿いにテラスを出してのんびりビールでも飲む。あるいは単に犬を連れて来て散歩していてもいい。少なくとも、これがヨーロッパであれば、こういった環境の周りに人が集まり、気に入った家をたて、のんびりと暮らし、あるいは休暇を楽しむだろう。環境のよさ、特に自然環境のよさは、お金で買えるものではない。だからこそ貴重なのであって、そこに人が集まってくるのだ。

「尾道は、これからどうしたらいいですかね?」

そんなことを考えていたら、ふとこんな会話になった。

「ここに住んでる人がまずは豊かに楽しく暮らす。それがいいのではないでょうか」。

そう言いながら、しかし、地方の行政について改めて考え直してみなければならない、そう思った。大きな規模の経済活動の中において、個人がばらばらに何かやっても焼け石に水だ。

そう思いながら、改めてもう一度この展望台からの景色を眺めてみた。