2010年9月27日月曜日

上海人は前しかみない。


「うわっ。すっごい人だわ、ここ」。

さすが上海一の目抜き通りだ。人民広場から南京東路に出てくると、完全歩行者天国の通りを挟んで両側にあらゆるお店がならび、夥しい数の歩行者が通りを行く。

「あ、危ない!」

通りを行くのは歩行者だけではない。なんと、歩道の上を、トラムが後ろから迫ってくる。しかも、ベルすらならさずに、人ごみの中を目がけて突っ込んでくるではないか。

「うわ、全然よける気配がないぞ。逃げろ!」。

慌てて脇にそれると、観光客をのせたトラムが何事もなかったかのように進んで行く。そしてその先々で人がそれをまたよけて行く。しかし誰も驚いた様子はない。これが日常なんだろう。

「おおぅ。ユニクロだ!こんな中心に店出してるんだなあ。ちょっと入ってみようよ」。

そういって、我々はユニクロを覗いてみることに。しかし我々は何もユニクロで買い物がしたい訳ではない。ユニクロなら東京で行けばいい話である。ここでは、商品や価格、そして店の雰囲気が見たかっただけだ。

「ほほう。なるほど。見て、これ、シャツが200元だよ。ということは、、、。日本円に換算すると、約3000円。こっちの水準で考えたら、決して安くないなあ。ていうか、高級路線だろ、完全に」。

「売れんのかね、これ。これだけの人通りにしては、店の中はあまりお客さんが入ってないなあ」。

「しかし、これで爆発的に売れた日には、株は間違いなく上がるよ。しかしそのためには、今後の中国の内需がどれだけ拡大していくかが重要だなあ。だって、これじゃやっぱり購買層は限られてくるよね」。

そんな事を口走りながら、店の中を一回りしてから外に出た。

おい、青なのに。あ、危ない!」。

店を出て河南中路との交差点に出たその時である。信号とは関係なく、もう歩行者もバイクも車も皆前だけみて交差点に突っ込んでくるではないか。

「上海人は前しかみない」。

しかしそれは何も交差点だけに限った話ではないのかも知れない。ひたすら前だけを見て、突っ込んで行く。周りの人の事などおかまいなし。とにかく自分の行きたい所に向かって突き進む。それも強烈に。怪我をしたくなければ自分でよければいいのだ。いちいち相手を気遣っている暇はこっちにはない。上海一の目抜き通りを行き交う人達のそんな姿勢が、上海人の生き方そのものを象徴しているかのよう。そんな事を思ったのは、しかし上海の滞在も終わりに近づいた頃だっただろうか。この日はまだ、この当たりの強い上海の空気に漸く慣れ始めたぐらいの段階だった。

「この先をまっすぐいったところが、サッスーンハウスの筈だ」。

サッスーンハウスとは19世紀にアヘン貿易で巨富を築いた上海の支配者サッスーン一族が建設した建物で、当時東洋一の建築物との異名をとった壮大な建築。緑のピラミッド上の屋根が目印だ。

「せっかくだから中に入ってみよう」。

サッスーンハウスは当時アヘン貿易で東洋一の財閥となったサッスーン商会のビルでもあり、最上階はサッスーンの住居でもあった歴史ある建物であるが、今ではここはホテルとなっている。

「うわっ」。

ロビーに出ると、そこは目もくらむようなまばゆい空間。

「うわっ。これ、ひょっとして本物の銀じゃないか?」

ロビーの四隅には、サッスーンハウスから見られる上海の景色が巨大な銀の彫刻で表現されている。

「いやあ、これはすごい富だったんだなあ」。

上海が開港させられたのは、1842年のアヘン戦争の結果であった。当時イギリスは、というかイギリス東インド会社は、既にインドを支配下におき、中国との間で三角貿易を行っていた。産業革命を果たし世界の工場となったイギリスで生産した綿製品をインドへ輸出。中国からは、お茶、シルク、陶磁器、などいくらでも買いたい物資にあふれていたが、逆に中国には輸出できるものがなかった。そこで中国との貿易を銀で決済していたため、どんどん銀が中国に流出して困っていたのである。そこで目を付けたのがインドのアヘンだった。これを中国に持ち込んだのである。このアヘン取引を牛耳ったのが、サッスーン一族である。そしてこのアヘン貿易の決済のためにサッスーン一族と同じくアヘン貿易で巨富を築いたジャーディンマセソンが設立した銀行が、HSBC銀行だ。

アヘン戦争の結果上海は開港させられ、そして黄浦江の縁、外灘に最初の英国租界ができ、不平等条約のもと、一攫千金を求める様々な人がこの上海の一角になだれ込んで行った。長崎のグラバー邸で有名なトマスグラバーもその一人だ。当時上海は何でもないただの漁村だったのが、列強の進出とともに、ここに混沌とした世界が突如生まれることになったのである。英国の次には、アメリカ、フランス、ロシアが租界を設けた。そして数々の西洋建築物を建てて行ったのである。このようにして、当時の上海は東洋一活気のある街となった。そしておそらく、中国の共産革命まで、その繁栄は続いていたに違いない。今でこそ、東京の方が洗練された都会だと言えるかも知れないが、戦前は圧倒的に上海の方が大都会だったのは間違いないだろう。そしてその大都会は近代の日本の知識人達も惹き付けた。

「しかし、経済発展て一体なんなんだろうなあ。だってさあ、このどん欲で周りを気にせず前だけをみて突き進む中国人の資質なんて、4000年前も今も、アヘン戦争の前もその後も、革命の前も後も、きっと変わってないに違いないんだ。それなのに、経済の波はこれほど極端に押し寄せては引いていき、そしてまた怒濤のように押し寄せている」。

「結局、資本がどれだけ投下されたか、というのが大事だということなんじゃないかな。とにかく資本主義経済においては、経済発展とはすなわち、その地域に循環するマネーの量を言っているに過ぎないわけだろう?GDPってのは、要するに、その土地でどれだけのマネーが動いたか、ということなんだし」。

「となると、今の中国に実力以上のマネーが集まり過ぎているのか、それとも実力が追いついてきているのか。この辺もポイントになるわけだなあ。しかし、見た感じやっぱりバブルな感じはあるけどね」。

強い日差しの中を少し歩いたせいもあってか、外灘のカフェで飲むビールがひときわ美味しい。

「さて、外灘もざっと一応見てみたし、次はどうしようかね」。
「少し裏道も歩いてみて、そこからお茶でも飲みにいくか。中国の茶室に行ってみよう」。

そうして向かった先は、預園だった。

























2010年9月23日木曜日

朝食から始まる上海の一日


「いやあ、やっぱり上海はすごいね」。

旧イギリス租界のバンド(地区)は中国語ではワイタン(外灘)と呼ばれる。上海一の目抜き通り、南京東路を右に折れると、この通り周辺こそが外灘。河(黄浦江)に沿って500mぐらいの細い一帯に、壮麗な西洋式建築が並ぶ景観は、圧巻だ。

我々は、この外灘を5ブロック歩いたところの角にあるビル、外灘3号に入って行き、ジョルジオアルマーニの基幹店の中を通ってエレベーターに乗った。

「ガイドブックによれば、確かここにカフェが入っている筈だよ」。

しかしエレベーターのボタンにはカフェらしき案内がない。(一体、何階なんだろう?)。エレベーターに飛び乗るも、階のボタンを一向に押さずにそわそわしている我々に、他の乗客が怪しい視線を向ける。狭いエレベーターには、他に5人の西洋人の女性達が乗っていたのだ。(この人達、一体誰?)。ほんの一瞬気まずい空気が漂ったその瞬間、彼女達がフランス語で何やらひそひそ話を始めた。何を言っているのかは聞こえないが、フランス語であることははっきり分かった。我々の事を怪しんでいるのだろうか?

Est-ce qu'il y a an cafe? (カフェって、ここにありますか?)。

Sept. (7階よ)。

とっさに昔勉強したフランス語が口をついて出てきた。こういう時は何か会話をした方がお互い安心するというものだ。しかも自分の国の言葉であれば尚更であろう。

7階につくと、そこはNew Heightsというお洒落なダイニング&バーであった。テラスに出ると、河(黄浦江)の東に広がる現代の金融センターの超高層ビル群と西に広がる19世紀の金融センターの西洋建築街が一望できる壮観な景色が目の前に広がった。

「いやあ、本当にすごい」。

上海は仕事では何度か行った事があったが、一緒に行った大学時代からの友人にとっては初めてであった。かといって、今回我々に特別な計画があったわけではない。

「取りあえず、今日は市内を歩いて回ってみようよ。まずは人民広場からメイン通りを通って外灘あたりがいいんじゃないかな」。

地図を見ながらやっとその結論に達したのは、その日の朝、ホテルで朝食を食べ始めて2杯目のコーヒーを飲み終えたぐらいの時だった。それもどちらかと言うと、ダイニングルームの終了時刻11時を回ってなお、のんびり話し込んでいる我々2人を何とかしようと、従業員が一斉に片付け始めたからだったと言ってよい。

「それにしても、このホテルは正解だったねえ。上海の騒々しい中心地にほど近いのに、ここだけは嘘のように静けさがある」。

実は、ホテルを決めたのは、上海出発のなんと1日前だった。というのもリサーチと話し合いに5日間ぐらいかかったためであり、特に最後の3日はほぼ徹夜に近い状態だった(笑)。そうして決めたのが、ここMoller Villa Hotel。19世紀から20世紀にかけて上海で活躍したユダヤ人の富豪、Eric Moller氏の邸宅を改築してホテルにしたものだ。洋館といえば洋館であるが、Eric Moller氏が娘さんのために建てたメルヘンチックな建物であり、一見お城のような独特の外観が特徴。しかし一歩中に入るとアンティーク家具に囲まれた空間が落ち着いた雰囲気を醸し出し、都会の喧噪を一気に忘れさせてくれる。ここのダイニングルームはまさにそのような空間だった。

「いやあ、本当、苦労して探した甲斐があった」。

上海での4日間の過ごし方は、全てその日の朝、このダイニングルームで朝食を食べて、コーヒーを飲みながら決めることとなり、その結果としてどの日も豊かな時間を過ごした事は間違いのない事だった。しかしながら、この毎日の朝食の時間そのものがまず非常にリッチな時間であった。朝食の時間には、その日の予定以外にも、ここで前日の振り返りをしながら、小さな発見を共有したり、どんなインスピレーションを受けたかを勝手気ままに披露したり、更には、中国の文化経済習慣について、仮説を言いながら大いに議論を繰り返した。それによって、見聞きしたつぶつぶの事象を繋ぎ合わせ、点が面になっていくように、いろんな事が整理されたように思うのである。

そんな風に朝食の時間を過ごした後、最初に出かけて行ったのが、外灘だったという訳である。

2010年9月6日月曜日

バイオリンリサイタル@静岡


「静岡までバイオリンのリサイタルを聞きにいかない?」。それは世界各地でクラシックに親しんで来た国際金融マンK氏のお誘いによるものだった。リサイタルは日曜日。ならば前日から静岡に入って、いろいろ見て来よう、ということで土曜日の12時に東京駅で待ち合わせ、新幹線に乗り込んだ。東京から「ひかり」でたったの一時間。静岡駅に降り立つと、観光案内所によって地図を何種類かもらったのち、すぐにレンタカーを借りにいく。前回K氏とレンタカーの旅をしたのは、2006年のセビリアだったと思う。その時も予約なしで車が借りられたように、今回も問題なく借りることができた。しかし、車はあっても目的地は決まっていない。そこで「まずどこかで地図やガイドを読み込もう」(笑)、ということで、向かったのがここ、日本平。標高308メートルのこの丘からは、清水の港町と澄んでいれば富士山がきれいに見える景勝地だ。ここ日本平ホテルのカフェにてこの素晴らしい景色を見ながら、静岡のことをしばし勉強。といっても、K氏の場合は、単に駅の観光チラシに目を通すだけではない。ホテルの人に日本平の歴史について尋ねてみたり、お茶を飲みに来ている周りのお客さんの会話にも少しだけ耳をそばだてるなど、カフェに居ながら集めてしまう情報量が半端ではない。そしてそれら断片的な情報を自らの仮説でつないでいく。テーマは、静岡の政治経済から静岡での生活、人生観まで、いろいろ勝手な意見を言い合う事、約1時間。しかし一貫して検討対象となっていながら、これといった答えの見つからなかった最大のテーマは、「今晩どこで何を食べるか」であった(笑)。

しかし、その答えは思わぬところで見つかった。それは、久能山東照宮をお参りした時に閃いたのではなく、また初秋の風を受けながらロープウェイより屏風のような切り立つ山々を見た時でもない。それは、日本平の丘をおり、清水の次郎長の船宿跡を出たときであった。

「あ、魚屋だ」。

次郎長の船宿跡の2軒となりに、山七という鮮魚屋があった。「魚のことなら、魚屋に聞くのが一番だ」そうつぶやくと、K氏が店の中に入って行く。実は、ここにたどり着くまでに、既に複数の人に「お勧めのお店」あるいは「お勧めの料理」をヒアリングしてきた。しかしながら、「そうですねぇ、ドリームプラザの回転寿司なら、まあリーズナブルでネタもいいですが」「お隣のお寿司も結構いいと思いますよ」といった返答で、歯切れがいまいち。しかしあまりもう時間もかけられない、ということで「じゃあ、回転寿司にでもいってみるか」と半ばあきらめかけていた時だったのである。

「この辺で美味しいお魚食べられるところって、どこですかね?」

K氏が聞くと、「そりゃ、たから屋だよ」。店の奥から、こちらの顔も見ずに、しかし間髪入れずに返ってくる答え。これには確かな手応えがある。(「この人達は旨いところを知ってるぞ!」)。K氏の目の色が変わる。店の奥から清水区の詳細な地図をひっぱり出させて、入念に場所を確認するK氏。そして我々はこの店にたどり着いた。

「いらっしゃーい」。

のれんをくぐると、そこには一本の木からできた長いカウンター席が8席ほど。テーブル席も少々。あとは二階に宴会席があるようだ。年期の入った内装だが、全体に清潔感が漂っている。カウンターの裏には黒板に手書きのメニューが。値段は書いてないが、魚の産地がちゃんと書いてある。そしてカウンターの上には、塩水につかったトコブシが。いかにもいいモノが出てきそうな雰囲気でいっぱいである。

「山七さんに聞いたら、ここに行けって言われたもんで」。

「これお通しです」と、まず出て来たのが、カニ味噌ののった冷製茶碗蒸し。いきなり旨い。「もう一つ、海産物の盛り合わせのお通しがあるんですが、出させてもらってもいいですか?」「はい、はい、是非」と、期待を込めていうと、その期待の3倍ぐらいのものが出てくる。

「ここはすごいぞ」。

これでK氏に火がついた。お通しで既にビールを飲み干していたK氏は、「つぎは日本酒で」と地酒の純米酒「臥竜梅」に切り替え。「1号と4号瓶がありますが」「それじゃ、4号で!」。大きなボトルが出てくると、K氏がコップになみなみとつぐ。

「お客さん、今日はいい赤陸奥がはいってますよ」。

「それいきましょう」。

しばらくすると姿造りで赤陸奥が登場。「えー、これが刺身。油乗っててうまいですよー。あとこっちが多少あぶったやつ、こっちのが肝と皮で、これはポン酢で召し上がってください。あとはあらを味噌汁にしますんで」。

「うわっ。すごい」と言いながら、まずはお刺身から。わさびも本わさびで、全く手抜きがない。「うま」。「いや、ここは正解だったね」。あっと言う間に赤陸奥を攻略した後は、更に鯵のたたき、生シラスの軍艦、メギスの天ぷら、、、と次から次へと地の物を楽しむことができたのであった。

翌日は朝早めのスタートで、今度は海岸線を西に車を走らせることとした。この辺の駿河湾の海岸線には、テトラポットがずっと並んでいて、時折強い波が打ち寄せている。久能街道沿いには、いちごのビニルハウスが並び、「いちご狩り」の看板が立ち並ぶ。しかし、今はそのシーズンではない。人が殆ど見られない。東照宮の入り口付近が少し観光地っぽくはなっているが、寂しい感じである。安倍川のあたりまでくると、国道が内陸に少し入る。「少し住宅地っぽくなってきたね」。しかし今度は街道沿いに大型店が立ち並ぶ、日本でこれまたよく目にする風景となってしまった。こういう所には、2人とも全く興味が湧かない。そのまま関係ない話をしながら素通りして、結局「魚のまち」の接頭語に惹かれて焼津の漁港に行ってみた。

「なるほどね」。

焼津では、静岡名物の黒はんぺんと桜えびを食べながら、朝のコーヒーを飲んで、静岡市街へ戻ることに。そのまま今度は市街をぐるっと回って、駿府城後の県庁や市役所の集まる新市街に車を停めて、今度は歩いて散策。まずはメインのデパートの人の入りなどをチェック。そしてショップの様子などを見て歩く事に。しかし、2人とも全く買い物には興味がない。街の雰囲気を見るだけである。

「うーむ、やっぱり静岡って、銀行と役所なのかね」。

市街の一等地で圧倒的な存在感を見せるのは、県庁、市役所、区役所のお役所と静岡銀行であった。旅のメインのコンサートを前に、もうすっかり静岡をエンジョイし切ってしまった感があったが、間違いなくここからが旅のメインイベントであった。このバイオリニストはとても素晴らしく聡明なプロの演奏家で、これまでに東京で2度リサイタルの機会があった他、以前は欧州やモスクワでもご一緒する機会があり、プロの音楽家の感性をよく教えて頂いていた。とくに印象に残っているのが、「音色に演奏家の性格が現れる」ということだろうか。とにかくこの日もとても素晴らしい演奏で静岡の旅を締めくくる事ができた。