2010年12月17日金曜日

ドラッカーの「マネジメント」。

この本は、素晴らしい。


今、座右の書は何かと聞かれたら、迷わずこれだと答えるだろう。


ドラッカーは、効果的なマネジメントが実践できるマネージャーの存在こそが社会の発展の原動力になる、と考えている。自分も本当にその通りだと思う。有能なマネージャーになるには、ドラッカーの「マネジメント」を読むだけでは、勿論不十分だが、しかしドラッカーを理解して、すぐれたマネジメントを実践できるマネージャーが増えれば、日本企業の競争力も、役所も、NPOも、教育機関も、医療法人も、間違いなくパフォーマンスレベルが格段に向上するだろう。そして経済的富の余剰が増し、行政サービスもよくなり、文化芸術も活性化し、社会全体の暮らしの「豊かさ」も必然的に増すに違いない(だからといって、リニアに「幸福度」が増すかどうかは、また別の問題ではある)。


そう思って、最近自分の同僚にも「ドラッカーを読む会」やらない?と声かけをしてみたが、いまいち反応がよろしくなく(英文で800ページ以上もある、というのが原因のひとつかも知れない)、仕方なく現在はひとりで(主に湯につかりながら(笑))読んでいるが、何とかこの本のエッセンスをひとりでも多くの人と共有したいものだ、と思っている。


ドラッカーの「マネジメント」は、もちろんあの「もしドラ」に出てくる本である。もともと30年以上も前の1973年に書かれた本であるが、「もしドラ」のお陰で、いまだに本屋でも平積みのベストセラーだ。これはすごいことである。


しかし自分が「マネジメント」を手にしたのは、「もしドラ」が出る前で、今から2年ぐらい前の事だと思う。その頃、自分は海外のとある会社の経営管理の仕事を任されていた。ヨーロッパ人の社長が経営するこの会社は、残念ながら業績が右肩下がり。何とか経営を立て直さなければならなかったが、そのためには、この社長をモチベートし、具体的な助言を行い、意味のある行動を起こさせ、成果を上げさせなければならなかった。しかし、これは容易なことではない。これをするためには、大前提として「自分がこの会社の社長だったら、何をするか?」が明確に見えていなければならないし、そのためには、そもそも経営者の仕事とは何なのか、をよく理解する必要があった。


そこで何か参考になる本はないものか、と丸善にいったら、ダイヤモンド社から赤いカバーのドラッカー全集のようなシリーズがずらりと並んでいた。タイトルを見て行くと目に留まったのが、「経営者の条件」だった。早速これを読んでみたところ、これが素晴らしく目から鱗でえらく感動したのである。それでこんないい本書く人なら、原典にあたってみよう、ということで、"Management: Tasks, Responsibilities, Practices"を購入したのであった。


これらを家で読みながら、経営管理の仕事を日々していたのだが、ドラッカーを読んで自信をつけた自分は、まるで自分が社長になったつもりでやってたので、本当の社長からしてみると、かなりうざかったと思う(笑)。


今では経営管理の仕事から離れてしまったが、それでも日々ドラッカーを読むのは自分にとっては、大いなる楽しみのひとつになっている。



2010年12月13日月曜日

中国といえば、お茶。

「もう最後なんだから、こっちのお金は全部使っちゃおう」。


早朝に発つ帰国便に乗るため、我々は朝5時45分にホテルでタクシーを予約し、そこから約30分で上海国際空港に着いていたから、その時点でまだ6時30分を過ぎていなかった筈だが、免税店の前にあるカフェで朝食を取ろうとする我々のテーブルには、点心の乗ったせいろに加えて、その脇には、青島ビールの瓶がちょこんと立っていた。


その日の朝は、前日までのうだるような日差しと暑さが嘘のように、空はどんよりと暗く、気温も一気に下がって、しとしとと降る雨が、ホテルの周りの雰囲気を一晩でがらりと変えたかのようだ。


「なんか、いいタイミングというか、よかったね、今までずっと天気がよくて」。


そう言いながら、睡眠不足で食欲が進まない自分は、カフェラテをちびりちびりと飲んでいた。朝カフェラテを飲むのが好きになったのは、多分2002年頃からだと思う。パリに行った時に、パリジャンが朝食にパンオショコラを食べながら、カフェラテを大きなカップで美味しそうに飲んでいたのをまねしたのだ。それからというもの、「朝の飲み物といえば、カフェラテ」。これが自分の定番であった。しかし考えてみると、この空港での「朝ラテ」を最後に、自分はカフェラテどころか、殆どコーヒーを飲まなくなってしまった。この旅を機に、コーヒー党から、お茶党へと乗り換えたのである。その理由は前日に買い込んだ数々の中国茶にあった。


前日、ひとしきり静安寺でコイン投げに興じた我々は、意外とあっさりと静安寺を後にし、すぐとなりにあるデパートに行くと、夕方までの半日をこのデパートで、もう少し厳密に言えば、地下一階の食品売場で過ごしたのであるが、ここで大量の中国茶を買い込んだのだ。


中国と言えば、何と言っても、世界のお茶の総本山だ。それは各国でお茶が何と言われているかを知れば自ずとそれが分かるだろう。ヨーロッパで茶飲み文化で知られる英国のteaもロシア語のчай(チャイ)も、語源は、中国の「茶」である。ついでに、トルコ語でもペルシア語でもスワヒリ語でも、音で言えば、チャイというそうだ。ちなみに紅茶の世界では、インドも有名だ。しかし、これはインドを植民地としていたイギリスが中国からお茶を持ち帰ってインドで栽培を始めたのが起源である。とにかくお茶といえば、中国、中国と言えば、お茶なのである。


もちろん中国には様々な種類のお茶がある。中国ではお茶は発酵度に応じて分類され、一般に、緑茶、青茶、紅茶、黒茶の4種類がある(白茶、黄茶、もある)。周知の通り、日本で生産されているものは殆ど全て「緑茶」だ。日本でのお茶の種類は、栽培方法などによって分類しているもので、中国の分類で言えば、全て緑茶の範囲である。これだけでも、中国のお茶の種類がどれだけ豊富か、想像がつくだろう。


今回私は、緑茶は日本にもあるのと、紅茶は、先日イギリスに行った同僚から私の好きなフフォートナムメイソンのものをたくさん頂いていたので、青茶と黒茶を買い込んで来た。青茶は、いわゆる鳥龍茶である。このカテゴリーでは、鉄観音が有名だ。黒茶は、もっとも発酵が進んだもので、プーアル茶がこれに当たる。今回一番たくさんの量を買ったのは、ジャスミン茶であるが、ジャスミン茶は香り付けをしたバリエーションであって、分類としては青茶に入る。


こうして持ち帰ったお茶を毎日飲んでいるうちに、気がついたらお茶ばかり飲むようになっていた。しかし、もちろんこれはいい事である。というのは、コーヒーの効能というものは、眠気覚まし以外には聞いた事がないが、お茶はもともと「薬」として飲まれていただけあって、ダイエットから解毒からビタミンから美肌効果まで、とにかく様々な効能があるからである。


「しかし、やっぱり中国は勢いがあったよね。ニュースも前向きなのばかりだ」。


前日の買い物の後、歩き疲れた我々はホテルの目の前にある足裏マッサージにいったのだが、あまりに疲れていたので、1時間のマッサージが終わった後も、そこのリクライニングチェアから起き上がることなく、さらに1時間ほどずっとテレビを見ていたのである(よく追い出されなかったものである)。この時に見たニュースが衛星の打ち上げや万博など、とにかく明るいニュースばかりだった。ニュースの後は、中国のドラマを見ていたが、「上海上海」という近代を舞台にしたこのドラマでは、なんとあのサッスーンが登場していて大変面白かった。


「で、結局中国のこれからは、一体どうなるんだろうか?」


我々はすでに飛行機に乗り込んでいた。窓の外には、強く降りしきる雨が見える。


(遅れずにちゃんと飛び立つだろうか?)


内心そう思って心配したのも束の間、定刻通りに飛行機は離陸した。


「実は、さっきまで少し中国の今とこれからを考えて整理してみた。まず中国の高い成長率の理由は工業化だ。農村からの労働力が都市部で第二次産業に従事しているのだから、いやでも成長率は上がる。沿海部でつくった製品を輸出して得た利潤で国庫も潤い、それが公共投資にまわって、インフラを発達させながら、不動産業が潤って来た。ところが、まだまだ農村部には大量の人口を抱えていて、貧富の差が広がって来ている。政府としては、もっともっとこれらの農民に都市部で職を準備しないといけないだろう。そう考えると、まだまだ輸出に依存するモデルを放棄できない。となれば、元はもう少し安いままでなくてはならない筈だ。まず中国政府は元の切り上げ圧力には、この点からそう簡単には応じないだろう」。


「なるほど」。


「でも、一方で、同時に内需拡大も推進する必要がある。これは富の分配率を見直すことに他ならない。要は、賃金上昇が必要だ、ということだ」。




そこまで言うと朝食が運ばれて来た。さっきあんなに食べたが、最後の中華料理だと思って、中華風焼きそばを食べる。これが結構旨い。しかし、通路を挟んで隣のアメリカ人はどうやら中華には興味がないようだ。


"Oh, no thank you"


というと、リクライニングシートも戻さず、もちこんだBurger Kingの袋からむしゃむしゃ食べ始めた。ついに食事らしい食事がとれた、とでも言い出さんばかりの雰囲気である。


「でもさあ、日本の高度成長って、1950年ぐらいからだとすると、約30年だろう?それ以上長い間高成長が続くのも難しいよね。中国って、もう何年高成長が続いているんだろうか?鄧小平の時代からだとすると、1980年代で、もう約30年だ。その意味では、これからは、未知の領域に入って行く、とも言えるのだろうか」。


「これからの中国政府の経済政策の舵取りは間違いなく簡単ではないよね。とにかく不動産バブルをはじけさせないように、マネーの量をコントロールしなくてはいけない。しかしホットマネーは常に外からも入ってくる。量的緩和をしている昨今ではなおさらだ。しかし一方で、景気に水をかけることもできない。賃金上昇となると輸出企業の競争力が低下したり、企業全体の収益率も減ってくるかも知れないけど、同時に内需が増えてくれば、新たな経済運営が可能になってくる」。


「しかし、とにかく我々が見た範囲だけで言うと、全体的には間違いなく買いだ。特に上海の人は当たりが強く、国際的にも物怖じしないキャラクターがある。国民性だけでいうと、たくましく国際社会で生きて行く力があるように思うよね」。


朝っぱらから、偉そうなことを話していると、CAが早々と食事を片付け始めた。


"Ladies and gentlemen, we will be going through some turbulence in about 10 minutes, so please remain seated and fasten your seat belt."


機内アナウンスによると、どうやら揺れるらしい。すると、機体が小刻みに上下運動を始めだした。その時である。どーんっと機体が大きく沈むと、機内からは、「きゃー」という大きな悲鳴が湧いた。


(なんてこった。これはボーイング747だぞ)。


欧州域内の小型飛行機なら何度も怖い思いをしたことがあるが、ジャンボ機でこれ程揺れたことは一度もない。


"Ladies and gentlemen, please fasten your seat belt."


機内アナスンスが繰り返される。


さっきの大きな揺れで緩んだシートベルトを締め直そうとベルトを引っ張った。ところがいくら引っ張っても一向に締まらない。


「あれっ?おかしいな」。


するするとベルトを引っ張ると、そのままなんと、端っこが出て来てしまった。ベルトが根元から外れてしまっているのだ。


「おいおい、これはまずい!」


次にあんな揺れがきたら、天井に頭を打ってしまう!そう思うと、焦って、CAを呼んだ。しかし、飛行機が下降を始めたため、CAもすっかり自分の席について自分のベルトを肩からかけはじめている。自分は、取れてしまったシートベルトを見せながら、CAを再度呼んでみた。とにかく他の空いている席を探してもらって、そっちに早く移らねば!


"Look, my seatbelt has come off!!"


しかし、シートベルトをし終わった今、これから席をたって面倒を見てくれそうな気配が全くない。そのCAからは、こう返って来た。


"Hold on to your arm rest!"
(手すりにつかまってください)。


いや、それは無理だ。いくらなんでも、あんな揺れがきたら、いくら掴まってたって、それは無理だろう!さっきまで隣でBurger Kingのポテトを食べてたアメリカ人も、これには驚いている様子だ。


するとまた機体が揺れ始めた。着陸態勢に入って、高度が下がって来たため、成田上空の厚い雲を通過しているのだ。


まずい。しかしシートベルトの端を見てみると、フック状になっている。しかし折れている訳ではない。(一体どこから外れたんだろう?)シートの左側をめくってみると、鉄の棒が現れ、隣の席のベルトもここから出ている。これだ。焦りながら何度もフックをかけようとする。


「カチャ」。


はまった!よし。すると間もなく、成田空港の滑走路に無事着陸を果たした。成田も上海に違わず、強い雨が降っていた。


(上海編、終わり)

2010年12月9日木曜日

静安寺(ジンアンスー)

上海の最終日にあたる4日目は、その前々日がそうだったように意気揚々と早朝のジョギングから開始する程の元気は残っていなかった。


前日は二日目の万博に乗り込み、その前の日に中国、米国という現代の覇権を争う2大国のパビリオンを見たのに続き、朝早くから炎天下を精力的に歩き回った。その結果、インド→タジキスタン→キルギスタン→日本→フランス→オランダ→クロアチア→スロベニア→リトアニア→アルゼンチン、と前日を遥かに上回る成果(笑)を上げられたのである。


「しかし、これだけ見ると、やっぱ万博って、面白いよね。国によって、力の入れ方とか全然違うし」。


例によって朝食はゆったりモード。最終日の今日は食べ始めで既に9時をまわっている。


「しかし、あれだね。ヨーロッパのと比べると、日本は本当真面目だよね」。


日本パビリオンでは、建物のつくり、展示物のつくり具合、出し物の種類と数、等で他のパビロンを圧倒しており、「すごい」というよりも、「真面目だなあ」という感想が第一に湧いてきた。国の威信をかけて真面目にパビリオンを出す。そんなことは当たり前ではないか?と思われるかも知れないが、国によっては、完全に手抜きした様子がありありと分かるのである。


「やっぱりヨーロッパの国は、こんなんじゃ勝負しないんだな。余裕だよ。余裕」。


数日前に外難地区でヨーロッパがアヘン貿易で中国をこじ開け、とてつもないビル群を建てて中国を支配した様子をまざまざと見せられた後だけに、思わずヨーロッパの底力に怖れをなしてみせる。


「それにしても、日本のあの舞台は頂けなかったなあ」。


日本パビリオンでは、日本の伝統、感覚的な美、そしてテクノロジー系プロダクトを全面にアピールしていた。かと思うと、最後にメインイベントと言わんばかりに通された部屋が、完全にシアターとなっていて、そこで繰り広げられたのが、能とミュージカルの融合のような舞台パフォーマンスであった。しかし、これがテーマ性のない中途半端なもので、何ともいただけなかった。


「で、今日はどうするかあ。金融機関行ってみたかったけど、今日は祝日で休みみたいだし」。


金融機関巡りは最終日に取っておいたのだが、何とこの日は中秋節の祝日で、ホテルでも「月餅」が無料で配られていたのである。


「じゃ、こうしない。最初に静安寺にいって、それから買い物は?」


こうして、もうお昼まじかになって向かったのが、ホテルからタクシーでワンメーターのところにある静安寺(ジンアンスー)であった。


この静安寺というのは、街中にポツンと飛び出す仏教寺であるが、これが実は悠久の中国史を象徴するかのような寺で、その建立はなんと247年。三国時代の産物である。


入ってみると、広場の真ん中に三重塔がたっており、何故か皆これにむかってコインを投げている。おそらく投げたコインがこの中に入ると幸運をもたらすことになっているのだろう。


「すごいな、これ。まるでコインの雨だ。お金を皆で投げ合うってのは、しかし何とも行儀が悪くないか?」


しかし、ふとみると、既に友人は腕をまくって、振りかぶってコインを投げ始めている。


そして次の瞬間、自分の足下にも、コロコロと銀色のコインが転がって来た。手に取ってみると、Yi Yuan。中国人民銀行1元。と書いてある。1元硬貨だ。大きさは、1ユーロコインよりも一回りだけ大きい。


「よっし」。


こっちは野球部で背番号「1」をつけて投げていたんだ。これぐらい、軽い、軽い。それっ。


「あ!」


上に向かって投げた筈のコインが、力を入れ過ぎたせいか、グイーっと曲がって、人混みの中へとライナー性の放物線で突っ込んで行く。そもそもコインなんて真っすぐに飛ぶ筈がない(笑)。


一瞬、誰かに当たったのではないかと焦ったが、しかしここは中国。日本だったら、人混みに硬貨がすっとんできたら、白い目で見られるのは明らかであるが、ここでは誰一人そんなこと気にする様子もない。何事もなかったかのように、線香に火をつけて広場でもお祈りをしているのである。


これに安心すると、次から次と転がってくる硬貨を拾い上げては、ひとしきりコイン投げに興じると、不思議と心が落ち着いてくるのであった。

2010年11月7日日曜日

海釣り&バービー@金沢八景

友人のお誘いを受けて、秋晴れの晴天の中、金沢八景で釣り船に乗った。

12時半発の半日コース。シロギス狙いの仕掛けで、食べきれない程の、いしもち、鯵、シロギス、を10人ぐらいで釣りあげ、陸揚げしてバーベキュー。

釣りは子供の頃から親しんだ遊びだ。釣り糸を通して手に伝わってくる「当たり」の感覚が懐かしい。自然と集中力も高まる。夢中で海に
キャスティングし続けているうちに、あっという間に半日が過ぎた。それにしても、天気も最高で、船で海に出るだけでもとても気持ちがいい。

バーベキューでは、鯵はたたき、シロギスは天ぷらに、いしもちは塩焼き、と思ったが、途中からいしもちも天ぷらにしたら、これが最高に美味しかった。いしもちは、今回初めて食べたが、身が弱めのため、天ぷらや唐揚げがあう。

今回の釣り船は、荒川屋というところのものだったが、男性女性20人ぐらいが乗船して、結構皆盛り上がって釣っていた。男性は5000円(女性は3500円)と、決して安くはないが、半日楽しむのには贅沢ないいレジャー。天気さえ良ければ最高だろう。是非またトライしてみたいアクティビティだった。




2010年10月31日日曜日

チキンブレストを使った料理

最近チキンの簡単で美味しい食べ方を発見した。これは、以前サロンdeリオで作ったことのある、キエフ風チキンカツレツ(正式名は、Viennese Style Chicken "Kiev" a la Salon de Rio(ウィーンスタイルで揚げたサロンdeリオ風のチキンキエフ)だった(笑))をもっと手抜きしたものである(笑)。上記チキンキエフ(長いのでこれでいく。本当はチキンキエフではないが)では、チキンの胸肉の真ん中に切れ目を入れて開き、塩コショウで味付けしてから中にチーズと大葉を挟み、小麦粉と卵とパン粉で衣をつけてバターを入れた油で軽く揚げたが、何もここまでする必要がない、と最近気がついた(笑)。

何をしたかというと、チーズと大葉を挟むところまでは一緒で、あとは小麦粉だけつけて、オリーブオイルを敷いたフライパンに放り込んで、冷蔵庫にあった野菜(ネギとエリンギとトマト)を一緒に入れて、蓋をして蒸し焼きに。途中でチキンをひっくり返して、少しお酒(なんでもいい。あまってた焼酎を入れた)を入れて、もう少し火にかけたら終わり。チーズが溶け出してちょっと脂っこくは見えるが、すごい簡単だし、旨い。あとチキンの油で味のついたエリンギとネギもとても美味しかった。

この日は、普通に仕事から帰って来てから、料理をはじめて、これ以外はあとはご飯を鍋炊きして(の方が圧倒的に早い)、あと味噌汁をつくったが全部で40分ぐらいだったと思う。ちなみに最近では味噌汁の出汁は必ず昆布(利尻がいい)と鰹節からとっている。面倒くさいと思われがちだが、決してそんなことはない。昆布は水からつけていれて火をつけて沸騰するまえに取り出す。そんなことが料理本には書いてあるが、そんなことは無視していい。自分は一旦取り出して、鰹節を入れて出汁をとってから、小さくきってまた戻して昆布も一緒に食べてしまっている(笑)。コツは鰹節をこさないで、箸ですくって取り出すこと。これが意外と簡単に全部とれてしまうものだ。これで時間も洗い物もぐんと減る。少しぐらい鰹節が残ったって、問題はないだろう。むしろ旨い。ちょっと話がそれてしまったが、チキンキエフの手抜き版、是非一度お試しを。

2010年10月24日日曜日

Better City, Better Life

「で、今日は何をされたんですか?」

我々は昼過ぎから夕方まで万博を見た後、タクシーを捕まえて、一旦浦西(プーシー)に位置するホテルまで帰って、シャワーを浴びてまたすぐにタクシーに飛び乗って再び黄浦江を渡って浦東(プードン)に来ていた。その日は浦東で在上海の知人や同僚4人に集まって頂いて、6人でディナーの予定があったからである。

「今日は、さっきまで万博を見てたんですよ」。

まさに予定通りの展開、というか、こういう会話が予想されること「だけ」が決定的な理由となって万博行きを決めていたのである。しかし、実際万博を見て得られたものは思いのほか大きいものとなった。

Better City, Better Life、の万博全体のスローガンのもと、中国パビリオンでは、いくつもの省の展示を回ると、「開発」と「環境」の二つのメッセージがはっきりと見え、沿海部だけでなく全中国を(クリーンに)開発(工業化)させ、生活水準を上げて行くのだ、という強い政治的メッセージを感じることとなった。となると、中国政府にとっては、まだまだたくさんいる内陸部の農村民に対して、いかに工業的な雇用を準備できるかが大きなテーマであり、そのためには、大きなポーションを占める輸出部門の成長を当面維持する必要があることから、米国を中心とした中国の通貨「元」の為替レート上昇圧力には簡単に屈しないだろう。一方、内需拡大政策も同時に推進する必要があり、そのためには徐々に賃上げも行って、中間層を広げる政策が必要だ、、、。といった話を一通りしてみたものの、「上海」を「日常」として日々経験しながら、目の前の問題に対処している方々にとっては、どちらかと言うと、次から次へと運ばれてくる中華料理の皿の方に関心が向きがちだったとしても、それははっきりいって仕方のないことである(笑)。

「こちらの暮らしの方はいかがですか?」

話しを現実的な方へ引き寄せた。そうしている間にも、いろんな皿が運ばれてくる。私はヨーロッパ料理も、中南米料理も、トルコ料理も、ロシアコーカサス料理も、もちろん日本料理も大変優れていると思っているが、中華料理が世界一だと思っている。それは世界一「うまい」からでも、世界一「すき」だからでもない。中華料理こそ、使われている食材と調理法の種類のかけ算によって出てくる料理の数が世界一豊かであるからだ。これは中国の地理的優位性と長年の歴史に因るところが大きいと思う。そのような世界一豊かな食事を中国の人は必ずといっていい程、大勢でテーブルを囲んで食べる。これは非常にいい文化だ。

「やっぱり、文化の違いをすごく感じますね」。

上海でコンサルティング会社の事務所を立ち上げているS女史が語る。

「なんて言うか、中国だと人と人との距離感がすごく違うんですよね。そしてものすごく、やはり個人主義的なんですよ。この辺は明らかに日本的文化とは異なるところで。日本企業から派遣されてくる駐在員の方も、この辺の違いに最初は面食らうでしょう」。

実はS女史は、自分の仕事上のつながりが少しだけあった方で、以前自分が関わっていた社内の企画に対して、素晴らしいご提案を持って来て頂いたのであった。しかしながら、この社内企画のオーナー部署が、S女史以外の会社を最終的に選んだため、残念ながら採用できなかったのである。しかし、自分は彼女のとてもプロフェッショナルで真摯な仕事への姿勢に大変感銘を受けて、その後も接点をつくるように努力していたのであった。それは彼女の能力やパフォーマンスが必ずや自分と自分の会社の成長に大きな効果をもたらす、と思っているからである。

自分の仕事上の信念のひとつ、というか、つねに心がけている原則として、こういうものがある。それは、自分と一緒に仕事をする全ての人がその仕事を最大限エンジョイできるようにしたい、そして最高のパフォーマンスを発揮できるようにしたい、そして自分と一緒に面白い仕事をして、それがきっかけとなって社内で大きく評価されて出世して欲しい。これは他社の人でも同じというか、むしろ他社の協力会社の人に対してよく思っていることである。過去、自分はそういう気持ちで欧州全土のあらゆる関係会社の人達と付き合いをしてきたし、その結果として、イギリスやイタリアの会社の人達と特別な関係をつくることができた。そういう人達と今でも時々会う機会があるのは大変嬉しいことだ。特にイタリアの会社の方から今では仕事の関係が殆どなくなったにも関わらず、時々連絡をもらっている。しかし、自分は決して接待を受けることはしない。前回も、最高のイタリア料理で5コースの食事を若いイタリア人のセールスマンと食べた事があったが、2人分自腹で逆にご馳走させて頂いたのだった。それは接待を受けているからその会社を贔屓していると決して思われたくない、という気持ちもあるにはあるが、どちらかと言うと、やっぱり我々のためによく仕事をしてくれていることへのお礼の気持ちの方が強い。この若いイタリア人のセールスマンとは、こうして何度もプライベートで食事をしながら(いつも必ずお決まりのイタリアンレストランだった)、お互いがどう協力し合ったら素晴らしい成果が挙げられるか、どんな事をすることが新たな価値の創出につながるのか、といった話をし、そして相手も本当にそれによく応えてくれた結果、自分たちも彼らの助けのお陰で今までにないパフォーマンスが発揮できるようになった。このS女史は、いつかそのように面白い仕事を通じてお互いWin/Winの関係をつくっていきたい、と思っている一人であることは間違いない。

「明日はどんな予定になってるのですか?」

いつもその日の予定は朝食を取りながら決めるのがこの旅のパターンになっていた訳で、もちろんこの段階ではまだ未定であったが、おそらくもう一日万博に行くだろう、という話をしていた。そしてその通り、翌日は今度はもっと早い時間から万博会場へと足を運び、前日の中国、アメリカ、に続いて今度は、インド、日本、フランス、オランダ、などを中心に丸一日か以上を歩いた。その結果、万博への各国のアプローチの違いや、日本の強み弱み、そして中国の今の状況など、非常に示唆に富んだ経験を得ることができたが、その夕食の晩の時点では、そこまでの事はまだ予想すらしていなかったのである。

2010年10月8日金曜日

シーボ。

「うーん、おかしいなあ。やっぱり通じてないよ。Expoぐらい通じると思ったんだけどなあ」。

11時を過ぎて万博行きを決め、ホテルのダイニングを飛び出してタクシーを捕まえたはよかったが、Expoが通じない。

「バンパク、バンパク!」

今度は友人が思い切って日本語でそのまま言ってみる。しかし、やはり通じない。
「やっぱりだめか」。

「うん?え?何?What?」。

「おい、何か言ってるよ、このドライバー。何言ってるのかね?」。

「うーん、ダメだ分からない。よし、こうなったら。これを言ってみよう」。

「プーミンバイ!」

「え?何それ?今何て言ったの?」。

「いや、ミンバイって、確か I understandなんだよ。それに「不」をつけて、プーミンバイ。これで I don't understandで通じてる筈だよ」。

「そうなんだ」。

そうしている間もタクシードライバーが半身で後ろを見ながら、何やらいろいろ言っているが、当然のことながら、こっちは何も分からず、自然とこのプーミンバイが連発されるようになってきた。

「プーミンバイ!」

「おい、何か急にドライバー静かになってきてないか?そのさあ「プーミンバイ」って、表現的に本当に大丈夫なのかな?ただ「分かりません」ならいいけどさあ、なんか「全く意味不明!」とかさあ、そんなニュアンスなんじゃないだろうね」。

「え、それって、何、例えばタクシーの運転手が、「どちらに行きたいんですか?次の交差点は左でいいんでしょうか?」とか言ってて、俺が「全く意味不明!」とか連発してるって状況(笑)?」

それは面白い、と2人で暫し爆笑。

「あれ、ちょっと待て。また何か言ってるよ。うん?シー?シーブ?シーボ。シーボって言ってないか?何だろう?シーボって?ん?ピョウ?シーボ?ピョウ?」

「シーボって、これのことじゃないか、ひょっとして。「世博」」。

「あ、それだ!」

ここ上海では、万博ではなく、世界博覧会を略して世博って言ってるんだ、と納得。

「そうそう!Yes, Yes!」

やっと通じたと思ったのか、タクシードライバーも「うんうん」と頷き嬉しそうな表情だ。しかし、またしても何やら言っている。そして今回もどうやら、「ピョウ」を連発しているように聞こえる。

「ピョウって、、、、まさか、あれじゃない?「票」。チケットじゃない?」

「あ、なるほど!確かに」。

でも、何だろう?チケットを持ってるかって聞いてるのかな?

「No, we don't have the tickets!」

取りあえず英語で言っておく。多分通じてはいなだろうけれども。

「あれかな、ひょっとしてチケット持っている人とそうでない人で、入り口が違うとでもいいたいのかな?あれ、ちょっと待て、何か出して来たぞ」。

「あ、これ万博のチケットだよ?持ってるんだ、このドライバー!」

「いや、ちょっとまて。これ本物って保証はないよ。やめとこうよ」。

「いくらふっかけてくるのかな」。

そういって、まずは値段を聞いてみると、どうやら160ということが分かった。160ということは、このチケットに書いてあるのと同じ数字である。

「あれ。マージンとってないよ、これ。どうする?」。

「160っていうと、いくらだ?2000円ちょっとかあ。うん、ま、ここで買ってみよう」。

そう結論が出た頃には、既に我々は黄浦江にかかる盧浦大橋を渡り終え、万博会場を上から見下ろし、そこに並ぶ300台以上の観光バスが目に入って来たころだった。

「それじゃ、チケット代含めると、全部で350か」

と言うと、友人が止めた。

「ちょっと待った。このドライバーは要領を得ないドライバーだからさ、いきなり350渡したら絶対混乱するよ。タクシー代とチケット代とで2回に分けて払おう」。

そういうと友人が身を乗り出して代金を支払いはじめた。

「For the ride, RMB 30. Yes, yes」

「Okay, RMB 320 for リャン ticket、リャン ticket、いや、リャンピョウ」

いちおう分かるところだけは、中国語を混ぜてみる友人。しかし、こうして支払うと、見事、すんなり済ますことができた。

こうして会場に到着すると、早速入場ゲートまで向かう。果たしてこのチケットが本物なのかどうか。真実の瞬間、と思いながら、電車の自動改札のようなところに通すと、ちゃんと通過することができた。

そうして中に入ってみると、最初に見えて来たのが、赤い大きな伝統建築を思わせる中国のパビリオンであった。

2010年10月4日月曜日

そして上海万博へ。


「さて、今日は何しようか」。

例によって朝食のコーヒーも二杯目に突入した頃、漸くこの日の予定について話すことになったのは、前日の発見について一通りの解釈を終えたあとであった。

「やっぱり中国人のというか、上海人のお金に対する信仰には思った以上のものがある」。

そう友人が言いながら、前日の預園での出来事を振り返る。預園は、1559年に四川省の役人によって造園が開始された2万平米にもなる広大な庭園で、明・清時代の江南式建築を現代に伝える見事な庭園だ。我々は、外灘周辺を歩いた後、タクシーに乗り込んで、このいつ行っても観光客でごった返している有名な観光地へ飛び込んでいったのであった。

「だってさあ、あの沈香閣での線香、皆黄色のやつを選んでたんだぜ。ピンクの方は俺以外には、殆ど選んでる人を見なかったよ」。

確かに黄色い線香で拝んでいる人を多く見かけた。沈香閣は預園エリアにある清代に建てられた廟だ。ここには、2種類の線香(といっても、巨大なものであるが)がおいてあり、購入できるようになっている。参拝者は、これを購入して、火をつけてお祈りをする習慣があるようだが、ピンクの線香は幸運一般、黄色い線香は、蓄財の意味がある、との説明があった。

「これだけお金儲けに皆がどん欲というのは、経済発展にとっては、いいに違いない。やっぱり中国は買いだよ」。

相変わらず続く、この中国が売りか買いかの会話。しかし、その後本当に大量に買い込むこととなったのは、預園の敷地内にある有名なティーハウス、湖心亭で飲んだのがあまりに香りがよく感心した、中国茶であった。

湖心亭は、預園の敷地の池の真ん中に浮かぶティーハウスで、エリザベス女王も訪れた事のあるところ。ここでヨーロッパ人2人を連れて観光していた日本人女性が声をかけてくれて教えて頂いたお茶が非常に美味しかった。

「しかし、あのお茶を教えてくれた人は、万博に3日間も通うって言ってたね。すごいよね」。

我々はこの時期に上海に行く事にしていたものの、万博に行く確実な予定は特段なく、通常なら万博チケット付きのツアーで日本から行く人も多い筈だったが、我々は当然ながらチケットはなし。もちろん、出発前に「上海にいくんだ」「あ、万博いくの?」という会話は少なく数えても、10回ぐらいはしていたと思う。「いや、多分いかない」という反応に「え?いかないの?」と皆一様に驚くものの、「でも、丸一日つぶして万博行きたいと思う?」と聞き直すと、「そうは必ずしも思わないけど、話のネタにはなるよね」、という返答がよく返ってきたものだった。ま、その程度の思いしかなかった我々からすると、三日間もかけて万博を回ろうというこの観光客がにわかに信じがたい気持ちになっていたのである。

「今日は何しようかね?」

「その前にさあ、あと残り3日間の予定の全体イメージを考えようよ」。

「え、もうあと3日?」

「だって、昨日は外灘と預園と新天地にいって、今日なわけでしょう?そしたらあと3日だよ」。

「そうかあ、もうあと3日かあ」。

全体で4日間しかない割には、あと3日というのがえらく短く感じる。

「そうだねえ。上海は昨日一通り見た感じがするしねえ。この後は、やっぱり一日は上海の郊外の蘇州あたりにでも足を伸ばすとして、一日はやっぱり金融機関を訪ねていろいろ調べてみたい。となると残りはあと一日だなあ」。

「一日はお土産を探すのにちょっとだけ買い物がしたいなあ」。

「そうなってくると、万博は、、、、やっぱり無理かあ。とりあえず、今日は郊外にいかないか?」。

「そうだなあ。でも郊外に出るなら、朝早く行った方がいいんじゃないか。今日はもう、、、11時だよ」。

「となると、浦東の金融センターに行って、金融機関巡りでもするか。ディナーも今日は浦東地区の予定だしね」。

その日の晩は正味4日間の上海滞在の中で、唯一あらかじめ予定が決まっていた晩で、上海に居る同僚や社外のコンサルタントの知人に集まって頂いて一緒に中華の円卓を囲むこととなっていたのである。

「やっぱりさあ、今日、これから万博いかない?」。

突然、友人が言い出した。

「だってさあ、今日の晩は皆で食事だろ。今日は何したの?て会話に絶対なるしさあ、その時に銀行行ってましたじゃ、つまらないよ」。

「そうだね。今日はこれから万博へ行こう。よし、今すぐに出よう」。

こうして、上海滞在の二日目の昼から万博へ行く事が決まると、すぐにモーラービラホテルのダイニングを飛び出し、陜西南路(シャンシーナンルー)の通りに出ると、タイミングよく延安中路を右折して曲がって来たバンタイプのタクシーを捕まえることに成功した。

「To Expo, please. The World Expo!」。

タクシーのドアを締めるや否や、すぐさまタクシードライバーに告げたのであった。

2010年9月27日月曜日

上海人は前しかみない。


「うわっ。すっごい人だわ、ここ」。

さすが上海一の目抜き通りだ。人民広場から南京東路に出てくると、完全歩行者天国の通りを挟んで両側にあらゆるお店がならび、夥しい数の歩行者が通りを行く。

「あ、危ない!」

通りを行くのは歩行者だけではない。なんと、歩道の上を、トラムが後ろから迫ってくる。しかも、ベルすらならさずに、人ごみの中を目がけて突っ込んでくるではないか。

「うわ、全然よける気配がないぞ。逃げろ!」。

慌てて脇にそれると、観光客をのせたトラムが何事もなかったかのように進んで行く。そしてその先々で人がそれをまたよけて行く。しかし誰も驚いた様子はない。これが日常なんだろう。

「おおぅ。ユニクロだ!こんな中心に店出してるんだなあ。ちょっと入ってみようよ」。

そういって、我々はユニクロを覗いてみることに。しかし我々は何もユニクロで買い物がしたい訳ではない。ユニクロなら東京で行けばいい話である。ここでは、商品や価格、そして店の雰囲気が見たかっただけだ。

「ほほう。なるほど。見て、これ、シャツが200元だよ。ということは、、、。日本円に換算すると、約3000円。こっちの水準で考えたら、決して安くないなあ。ていうか、高級路線だろ、完全に」。

「売れんのかね、これ。これだけの人通りにしては、店の中はあまりお客さんが入ってないなあ」。

「しかし、これで爆発的に売れた日には、株は間違いなく上がるよ。しかしそのためには、今後の中国の内需がどれだけ拡大していくかが重要だなあ。だって、これじゃやっぱり購買層は限られてくるよね」。

そんな事を口走りながら、店の中を一回りしてから外に出た。

おい、青なのに。あ、危ない!」。

店を出て河南中路との交差点に出たその時である。信号とは関係なく、もう歩行者もバイクも車も皆前だけみて交差点に突っ込んでくるではないか。

「上海人は前しかみない」。

しかしそれは何も交差点だけに限った話ではないのかも知れない。ひたすら前だけを見て、突っ込んで行く。周りの人の事などおかまいなし。とにかく自分の行きたい所に向かって突き進む。それも強烈に。怪我をしたくなければ自分でよければいいのだ。いちいち相手を気遣っている暇はこっちにはない。上海一の目抜き通りを行き交う人達のそんな姿勢が、上海人の生き方そのものを象徴しているかのよう。そんな事を思ったのは、しかし上海の滞在も終わりに近づいた頃だっただろうか。この日はまだ、この当たりの強い上海の空気に漸く慣れ始めたぐらいの段階だった。

「この先をまっすぐいったところが、サッスーンハウスの筈だ」。

サッスーンハウスとは19世紀にアヘン貿易で巨富を築いた上海の支配者サッスーン一族が建設した建物で、当時東洋一の建築物との異名をとった壮大な建築。緑のピラミッド上の屋根が目印だ。

「せっかくだから中に入ってみよう」。

サッスーンハウスは当時アヘン貿易で東洋一の財閥となったサッスーン商会のビルでもあり、最上階はサッスーンの住居でもあった歴史ある建物であるが、今ではここはホテルとなっている。

「うわっ」。

ロビーに出ると、そこは目もくらむようなまばゆい空間。

「うわっ。これ、ひょっとして本物の銀じゃないか?」

ロビーの四隅には、サッスーンハウスから見られる上海の景色が巨大な銀の彫刻で表現されている。

「いやあ、これはすごい富だったんだなあ」。

上海が開港させられたのは、1842年のアヘン戦争の結果であった。当時イギリスは、というかイギリス東インド会社は、既にインドを支配下におき、中国との間で三角貿易を行っていた。産業革命を果たし世界の工場となったイギリスで生産した綿製品をインドへ輸出。中国からは、お茶、シルク、陶磁器、などいくらでも買いたい物資にあふれていたが、逆に中国には輸出できるものがなかった。そこで中国との貿易を銀で決済していたため、どんどん銀が中国に流出して困っていたのである。そこで目を付けたのがインドのアヘンだった。これを中国に持ち込んだのである。このアヘン取引を牛耳ったのが、サッスーン一族である。そしてこのアヘン貿易の決済のためにサッスーン一族と同じくアヘン貿易で巨富を築いたジャーディンマセソンが設立した銀行が、HSBC銀行だ。

アヘン戦争の結果上海は開港させられ、そして黄浦江の縁、外灘に最初の英国租界ができ、不平等条約のもと、一攫千金を求める様々な人がこの上海の一角になだれ込んで行った。長崎のグラバー邸で有名なトマスグラバーもその一人だ。当時上海は何でもないただの漁村だったのが、列強の進出とともに、ここに混沌とした世界が突如生まれることになったのである。英国の次には、アメリカ、フランス、ロシアが租界を設けた。そして数々の西洋建築物を建てて行ったのである。このようにして、当時の上海は東洋一活気のある街となった。そしておそらく、中国の共産革命まで、その繁栄は続いていたに違いない。今でこそ、東京の方が洗練された都会だと言えるかも知れないが、戦前は圧倒的に上海の方が大都会だったのは間違いないだろう。そしてその大都会は近代の日本の知識人達も惹き付けた。

「しかし、経済発展て一体なんなんだろうなあ。だってさあ、このどん欲で周りを気にせず前だけをみて突き進む中国人の資質なんて、4000年前も今も、アヘン戦争の前もその後も、革命の前も後も、きっと変わってないに違いないんだ。それなのに、経済の波はこれほど極端に押し寄せては引いていき、そしてまた怒濤のように押し寄せている」。

「結局、資本がどれだけ投下されたか、というのが大事だということなんじゃないかな。とにかく資本主義経済においては、経済発展とはすなわち、その地域に循環するマネーの量を言っているに過ぎないわけだろう?GDPってのは、要するに、その土地でどれだけのマネーが動いたか、ということなんだし」。

「となると、今の中国に実力以上のマネーが集まり過ぎているのか、それとも実力が追いついてきているのか。この辺もポイントになるわけだなあ。しかし、見た感じやっぱりバブルな感じはあるけどね」。

強い日差しの中を少し歩いたせいもあってか、外灘のカフェで飲むビールがひときわ美味しい。

「さて、外灘もざっと一応見てみたし、次はどうしようかね」。
「少し裏道も歩いてみて、そこからお茶でも飲みにいくか。中国の茶室に行ってみよう」。

そうして向かった先は、預園だった。

























2010年9月23日木曜日

朝食から始まる上海の一日


「いやあ、やっぱり上海はすごいね」。

旧イギリス租界のバンド(地区)は中国語ではワイタン(外灘)と呼ばれる。上海一の目抜き通り、南京東路を右に折れると、この通り周辺こそが外灘。河(黄浦江)に沿って500mぐらいの細い一帯に、壮麗な西洋式建築が並ぶ景観は、圧巻だ。

我々は、この外灘を5ブロック歩いたところの角にあるビル、外灘3号に入って行き、ジョルジオアルマーニの基幹店の中を通ってエレベーターに乗った。

「ガイドブックによれば、確かここにカフェが入っている筈だよ」。

しかしエレベーターのボタンにはカフェらしき案内がない。(一体、何階なんだろう?)。エレベーターに飛び乗るも、階のボタンを一向に押さずにそわそわしている我々に、他の乗客が怪しい視線を向ける。狭いエレベーターには、他に5人の西洋人の女性達が乗っていたのだ。(この人達、一体誰?)。ほんの一瞬気まずい空気が漂ったその瞬間、彼女達がフランス語で何やらひそひそ話を始めた。何を言っているのかは聞こえないが、フランス語であることははっきり分かった。我々の事を怪しんでいるのだろうか?

Est-ce qu'il y a an cafe? (カフェって、ここにありますか?)。

Sept. (7階よ)。

とっさに昔勉強したフランス語が口をついて出てきた。こういう時は何か会話をした方がお互い安心するというものだ。しかも自分の国の言葉であれば尚更であろう。

7階につくと、そこはNew Heightsというお洒落なダイニング&バーであった。テラスに出ると、河(黄浦江)の東に広がる現代の金融センターの超高層ビル群と西に広がる19世紀の金融センターの西洋建築街が一望できる壮観な景色が目の前に広がった。

「いやあ、本当にすごい」。

上海は仕事では何度か行った事があったが、一緒に行った大学時代からの友人にとっては初めてであった。かといって、今回我々に特別な計画があったわけではない。

「取りあえず、今日は市内を歩いて回ってみようよ。まずは人民広場からメイン通りを通って外灘あたりがいいんじゃないかな」。

地図を見ながらやっとその結論に達したのは、その日の朝、ホテルで朝食を食べ始めて2杯目のコーヒーを飲み終えたぐらいの時だった。それもどちらかと言うと、ダイニングルームの終了時刻11時を回ってなお、のんびり話し込んでいる我々2人を何とかしようと、従業員が一斉に片付け始めたからだったと言ってよい。

「それにしても、このホテルは正解だったねえ。上海の騒々しい中心地にほど近いのに、ここだけは嘘のように静けさがある」。

実は、ホテルを決めたのは、上海出発のなんと1日前だった。というのもリサーチと話し合いに5日間ぐらいかかったためであり、特に最後の3日はほぼ徹夜に近い状態だった(笑)。そうして決めたのが、ここMoller Villa Hotel。19世紀から20世紀にかけて上海で活躍したユダヤ人の富豪、Eric Moller氏の邸宅を改築してホテルにしたものだ。洋館といえば洋館であるが、Eric Moller氏が娘さんのために建てたメルヘンチックな建物であり、一見お城のような独特の外観が特徴。しかし一歩中に入るとアンティーク家具に囲まれた空間が落ち着いた雰囲気を醸し出し、都会の喧噪を一気に忘れさせてくれる。ここのダイニングルームはまさにそのような空間だった。

「いやあ、本当、苦労して探した甲斐があった」。

上海での4日間の過ごし方は、全てその日の朝、このダイニングルームで朝食を食べて、コーヒーを飲みながら決めることとなり、その結果としてどの日も豊かな時間を過ごした事は間違いのない事だった。しかしながら、この毎日の朝食の時間そのものがまず非常にリッチな時間であった。朝食の時間には、その日の予定以外にも、ここで前日の振り返りをしながら、小さな発見を共有したり、どんなインスピレーションを受けたかを勝手気ままに披露したり、更には、中国の文化経済習慣について、仮説を言いながら大いに議論を繰り返した。それによって、見聞きしたつぶつぶの事象を繋ぎ合わせ、点が面になっていくように、いろんな事が整理されたように思うのである。

そんな風に朝食の時間を過ごした後、最初に出かけて行ったのが、外灘だったという訳である。

2010年9月6日月曜日

バイオリンリサイタル@静岡


「静岡までバイオリンのリサイタルを聞きにいかない?」。それは世界各地でクラシックに親しんで来た国際金融マンK氏のお誘いによるものだった。リサイタルは日曜日。ならば前日から静岡に入って、いろいろ見て来よう、ということで土曜日の12時に東京駅で待ち合わせ、新幹線に乗り込んだ。東京から「ひかり」でたったの一時間。静岡駅に降り立つと、観光案内所によって地図を何種類かもらったのち、すぐにレンタカーを借りにいく。前回K氏とレンタカーの旅をしたのは、2006年のセビリアだったと思う。その時も予約なしで車が借りられたように、今回も問題なく借りることができた。しかし、車はあっても目的地は決まっていない。そこで「まずどこかで地図やガイドを読み込もう」(笑)、ということで、向かったのがここ、日本平。標高308メートルのこの丘からは、清水の港町と澄んでいれば富士山がきれいに見える景勝地だ。ここ日本平ホテルのカフェにてこの素晴らしい景色を見ながら、静岡のことをしばし勉強。といっても、K氏の場合は、単に駅の観光チラシに目を通すだけではない。ホテルの人に日本平の歴史について尋ねてみたり、お茶を飲みに来ている周りのお客さんの会話にも少しだけ耳をそばだてるなど、カフェに居ながら集めてしまう情報量が半端ではない。そしてそれら断片的な情報を自らの仮説でつないでいく。テーマは、静岡の政治経済から静岡での生活、人生観まで、いろいろ勝手な意見を言い合う事、約1時間。しかし一貫して検討対象となっていながら、これといった答えの見つからなかった最大のテーマは、「今晩どこで何を食べるか」であった(笑)。

しかし、その答えは思わぬところで見つかった。それは、久能山東照宮をお参りした時に閃いたのではなく、また初秋の風を受けながらロープウェイより屏風のような切り立つ山々を見た時でもない。それは、日本平の丘をおり、清水の次郎長の船宿跡を出たときであった。

「あ、魚屋だ」。

次郎長の船宿跡の2軒となりに、山七という鮮魚屋があった。「魚のことなら、魚屋に聞くのが一番だ」そうつぶやくと、K氏が店の中に入って行く。実は、ここにたどり着くまでに、既に複数の人に「お勧めのお店」あるいは「お勧めの料理」をヒアリングしてきた。しかしながら、「そうですねぇ、ドリームプラザの回転寿司なら、まあリーズナブルでネタもいいですが」「お隣のお寿司も結構いいと思いますよ」といった返答で、歯切れがいまいち。しかしあまりもう時間もかけられない、ということで「じゃあ、回転寿司にでもいってみるか」と半ばあきらめかけていた時だったのである。

「この辺で美味しいお魚食べられるところって、どこですかね?」

K氏が聞くと、「そりゃ、たから屋だよ」。店の奥から、こちらの顔も見ずに、しかし間髪入れずに返ってくる答え。これには確かな手応えがある。(「この人達は旨いところを知ってるぞ!」)。K氏の目の色が変わる。店の奥から清水区の詳細な地図をひっぱり出させて、入念に場所を確認するK氏。そして我々はこの店にたどり着いた。

「いらっしゃーい」。

のれんをくぐると、そこには一本の木からできた長いカウンター席が8席ほど。テーブル席も少々。あとは二階に宴会席があるようだ。年期の入った内装だが、全体に清潔感が漂っている。カウンターの裏には黒板に手書きのメニューが。値段は書いてないが、魚の産地がちゃんと書いてある。そしてカウンターの上には、塩水につかったトコブシが。いかにもいいモノが出てきそうな雰囲気でいっぱいである。

「山七さんに聞いたら、ここに行けって言われたもんで」。

「これお通しです」と、まず出て来たのが、カニ味噌ののった冷製茶碗蒸し。いきなり旨い。「もう一つ、海産物の盛り合わせのお通しがあるんですが、出させてもらってもいいですか?」「はい、はい、是非」と、期待を込めていうと、その期待の3倍ぐらいのものが出てくる。

「ここはすごいぞ」。

これでK氏に火がついた。お通しで既にビールを飲み干していたK氏は、「つぎは日本酒で」と地酒の純米酒「臥竜梅」に切り替え。「1号と4号瓶がありますが」「それじゃ、4号で!」。大きなボトルが出てくると、K氏がコップになみなみとつぐ。

「お客さん、今日はいい赤陸奥がはいってますよ」。

「それいきましょう」。

しばらくすると姿造りで赤陸奥が登場。「えー、これが刺身。油乗っててうまいですよー。あとこっちが多少あぶったやつ、こっちのが肝と皮で、これはポン酢で召し上がってください。あとはあらを味噌汁にしますんで」。

「うわっ。すごい」と言いながら、まずはお刺身から。わさびも本わさびで、全く手抜きがない。「うま」。「いや、ここは正解だったね」。あっと言う間に赤陸奥を攻略した後は、更に鯵のたたき、生シラスの軍艦、メギスの天ぷら、、、と次から次へと地の物を楽しむことができたのであった。

翌日は朝早めのスタートで、今度は海岸線を西に車を走らせることとした。この辺の駿河湾の海岸線には、テトラポットがずっと並んでいて、時折強い波が打ち寄せている。久能街道沿いには、いちごのビニルハウスが並び、「いちご狩り」の看板が立ち並ぶ。しかし、今はそのシーズンではない。人が殆ど見られない。東照宮の入り口付近が少し観光地っぽくはなっているが、寂しい感じである。安倍川のあたりまでくると、国道が内陸に少し入る。「少し住宅地っぽくなってきたね」。しかし今度は街道沿いに大型店が立ち並ぶ、日本でこれまたよく目にする風景となってしまった。こういう所には、2人とも全く興味が湧かない。そのまま関係ない話をしながら素通りして、結局「魚のまち」の接頭語に惹かれて焼津の漁港に行ってみた。

「なるほどね」。

焼津では、静岡名物の黒はんぺんと桜えびを食べながら、朝のコーヒーを飲んで、静岡市街へ戻ることに。そのまま今度は市街をぐるっと回って、駿府城後の県庁や市役所の集まる新市街に車を停めて、今度は歩いて散策。まずはメインのデパートの人の入りなどをチェック。そしてショップの様子などを見て歩く事に。しかし、2人とも全く買い物には興味がない。街の雰囲気を見るだけである。

「うーむ、やっぱり静岡って、銀行と役所なのかね」。

市街の一等地で圧倒的な存在感を見せるのは、県庁、市役所、区役所のお役所と静岡銀行であった。旅のメインのコンサートを前に、もうすっかり静岡をエンジョイし切ってしまった感があったが、間違いなくここからが旅のメインイベントであった。このバイオリニストはとても素晴らしく聡明なプロの演奏家で、これまでに東京で2度リサイタルの機会があった他、以前は欧州やモスクワでもご一緒する機会があり、プロの音楽家の感性をよく教えて頂いていた。とくに印象に残っているのが、「音色に演奏家の性格が現れる」ということだろうか。とにかくこの日もとても素晴らしい演奏で静岡の旅を締めくくる事ができた。

2010年8月22日日曜日

山登り@棒の峰

昨日は友人5人で埼玉県名栗村に山登りにいった。ここは、1,000メートル弱で初心者向け。沢伝いに登るコースはマイナスイオンもたっぷりで、非常に気持ちよく登れる素晴らしいコースだ。この山を登ることになったきっかけは、自分が以前よく登山に連れて行ってくれた友人の法律家Iさんに「また、行こうよ」と言ったのがきっかけで、いつもながIさんが全て計画してくれたものである。自分としての登山の楽しみは3つあって、一つは皆で一緒に登る楽しみ、二つ目は、登ってご飯を食べる楽しみ(笑)、三つ目は、降りて来て温泉につかる楽しみだ。今回はこの三つが全て満たされる山登りとなった!

今回はIさん夫妻の他、以前潮干狩りでもご一緒したCさんとCさんのご友人で都市計画を行っているYさんと初めてご一緒したが、普段あまり聞く事のできない建築や都市デザインの話を道すがらたくさん聞く事ができた。

さて話をしたり写真を撮ったりしながら登り初めて3時間で頂上に到着してお昼に。山登りした時のご飯は本当に美味しい。今回は、前日にサンドイッチをつくっていったが、昔オランダでダンスの大会前日の夜によくサンドイッチを作ったのが思い出された。お昼時にCさんが持って来てくれた冷凍パイナップルを皆で頂いたが、これが素晴らしく身体にしみいるような旨さであった。

下山はそれほど消耗しないかと思ったが、すべって危険な沢コースをやめて、冬登山コースを降りたところ、これが思いのほか急で非常に疲れたが、その分下山後の温泉が格別であった。

名栗村は、登山だけではなく、そもそも景観が素晴らしく、麓のまたキャンプ場では多くの家族が沢遊びに興じていた。「さわらび温泉」も居心地がよく、一日遊ぶのにはとてもいい場所であった。