ラベル 旅行 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 旅行 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2009年4月5日日曜日

尾道の展望台にて

「あら、戻ってらしたの?これから英語のレッスンがあって、先生がくるんだけど、よかったら一緒にいかが?」「先生は、若い女の子よ」

倉敷を出て次に向かったのは尾道だった。JR山陽本線のプラットホームに立って暫くすると、「いい日旅立ち」の曲に乗って、電車がホームに入ってくる。乗り込むと、瀬戸内の豊かな陽が差し込む車内は、ぽかぽかで椅子に座るやいなや、すぐに眠くなってきた。前の列には地元の高校生らしき3人乗っていて、大きな声で話をしている。

「聞いてよ、私の姉ちゃんさあ、今台湾人と付き合ってるんだよ。やばくない?アメリカに居るんだけど、台湾人が彼氏なんだって。陳さん、らしんだけど。それってさあ、もし結婚したら、姉ちゃんの名前、「陳さとみ」ってこと? 絶対いややわ、それ」。

岡山駅から倉敷に向かったときは、隣のブースにアメリカ人が二人乗っていて、やはり大きな声で話をしていたことを思い出した。この車両に居るのは、殆ど皆地元の人に見える。アメリカ人はおろか、大阪人すら居そうにない。いよいよ旅情が湧いてくる感じだった。

尾道に行くのは、はじめて。ガイドブックは読んだが、街のイメージは何もない。ただ、のどかな瀬戸内の雰囲気を感じられることを期待していた。

尾道は、瀬戸内海の尾道水道に沿って、東西に細長い街だ。その真ん中をアーケードの商店街がつーっと通っている。そのすぐ北に平行して道路が一本と線路が走っていて、その北がもう小高い丘。ここに神社仏閣も多く並んでいて、昔ながらの民家も軒を連ねている。「坂の尾道」、はこの部分から来ている。

その尾道の坂道を登り歩き、千光寺に行ってみた。眼下に見下ろす尾道水道の眺めはなかなか。しかし、この日はとにかく寒かった。これはたまらんと、せっせと坂を降り始め、尾道ラーメンを食べて、さっさと向島の宿に戻ることを決めたのだった。

この宿は以前から知っていたところではなく、インターネットで検索してヒットしたB&B。ここにした理由は場所が「向島」という一応「島」にあったからで、尾道を全く知らない自分が勝手に東京の自宅で想像したのは、瀬戸内ののどかな漁師の島みたいなものだった。

ところが、着いてみると向島の印象は全く違っていて、目の前に船舶の修理工場があって、工業的だし、環境も正直いいとは思えない。早くも後悔しそうになりながら何でもない住宅街を荷物を持って歩いていくと、漸くこのB&Bが現れたのは、古い床屋さんを右に曲がって行ったところだった。

「あれ?この家だけ、雰囲気が違う」。

まず家が大きい。確かにB&Bをするぐらいだから、大きくないと話にならないので、考えてみれば驚くには値しない筈なのだけれど、それにしても、こんな街並の中で、こんな大きい家。

「何をやってる家なんだろう」。

出迎えてくれたのはおばあちゃんで、おかみさんはその日は東京に行っていて、夜戻るのだとか。いろいろ話を聞いてみると、お孫さんが3人いらして、大学等で外に出るようになって部屋が空いたので、B&Bにしているらしいことが分かった。

「今日は丁度東京の大学に行っている孫の卒業式なんですよ」。

「お孫さんは、東京でどちらの大学に行かれていたんですか?」

「東京大学です」。

(一見何でもない田舎にぽつんとある大きな屋敷。しかもお孫さんが東京大学となると、この辺の名士の家に違いない...)。

のっけからそんな風にこの家に対して関心の度合いが高かったので、ちょっと寒くなるや、尾道観光はそっちのけで、この家の人といろいろ話をしてた方が面白ろかろう、そう思ったのである。

宿に帰ってみると、そこのおかみさんがちょうど英語のレッスンを受けるところだったのだ。

「じゃ、ぜひ」。

全く躊躇いもなくこう答えたのに、おかみさんも一瞬驚いたようであったが、おかみさんより先にさっさと下に降りて行ってしまった。

「こんにちは」。

自分はてっきり外国人かと思っていたら、日本人の女性だったので、こっちも一瞬驚いた。しかも若い。聞いてみると、この先生は、もともと生まれは向島だが、お父さんの仕事の関係でハワイで育ち、その後パリの大学に行って、先日卒業したばかりとか。英語は殆どネイティブで、発音は完全なアメリカ式だった。

この日のレッスンのテーマはこの先生が大学で国際政治を学んでいたこともあり、英語の初級者向けのテキストには全くもって不向きであったが、ソマリアへの自衛隊派遣の記事を読む、というものだった。この記事を先生と自分で音読して、その後おかみさんにも読んでもらい、一緒に発音を勉強したり、意味を追って行ったりしたあと、ソマリアの海賊問題の背景や、アデン湾の地政学的重要性などについて話をしたりした。まさか尾道まできて英語のレッスンに立ち会えるとは思ってもおらず、思いがけず、楽しい一時となった。

それにしてもだ。そもそもこの先生は本来は英語の先生でも何でもない。ハワイで育ってパリの大学を出た、いわば「洋行」戻りの人なのである。そういう人を地元で見つけてきて、週に一度家によんでお茶をしながら、英語の勉強という名目のもとにいろいろお話をして見聞を広げる。これは言ってみれば、「サロン」を開催しているようなものである。その姿勢たるや、江戸の大名かパリの貴族さながらである。こういうことをしようとするアイディアや好奇心というのは、自然と身に付くものではない。これこれそがこの家の「育ち」だろうと思った。このおかみさんの息子さんが東京大学に出られるのも頷ける。

さて、このレッスンが終わると、おかみさんは先生を家まで送りに出て行ったが、自分はひとりリビングでストーブにあたっていると、今度はこの宿のおばあちゃんが出てきて、家のアルバムをもってきて見せてくれた。どれもいい写真だ。聞くと、既に亡くなられたが、このおばあちゃんの旦那さんが、文化的な人で、映画造りなどもやっていたが、写真家としても活動していたのだという。まだまだ海外旅行などが一般的でない時代に、船でヨーロッパにわたって映した貴重な数多くの写真や、広島の原爆の後を追った写真など、何冊ものアルバムが出てくる。
「これは、あの人が、〜にいったときに撮ったものです〜」。

といった調子で、一枚一枚解説付きだ。写真もさることながら、私はこのおばあちゃんが一枚一枚を解説できるというのは一体どういうことだろうか、と思った。写真家というのは写真を撮りに行くときは、独りで撮りに行くものだ。このおばあちゃんは決してその場に居た筈がない。ということは、写真ができた後に何度も何度も話を聞いていた、ということだろうか。それにしても、これだけ多くの写真である。私はこのおばあちゃんがアルバムのページをめくる度に、昔あったであろう、おじいちゃんとおばあちゃんの会話の様子を想像しながら、解説を聞き入ったのであった。

「あら、おばあちゃん、まだやってるの〜。すみませんね〜」。

おかみさんが帰って来た。

「いいんですよ。私も写真を見るのが好きですし、こんな貴重な写真なんですから。観光よりもこっちの方が全然面白いです」。

「あら、そうなの。じゃあ、こんな写真もあるわよ」。

といって持って来てくれたのは、昔からの家族の写真であった。写真家のおじいちゃんの前の大おじいちゃんの写真もある。しかも、何と日露戦争前後の時代に、アメリカに渡っているのである。

(尾道の豪商の末裔なんだ...)。

翌日の朝、朝食を頂くと、ぼちぼちチェックアウトの時間が近づいていた。鞆の浦によって帰る計画で、宿の人にも行き方を聞いていたのだ。荷物をまとめて、お支払いをすませて、ブーツに足を通す。

「向島、反対側もちゃんと一周して見られました?」

「今回は残念ながらその時間はなかったですね」

「では、今からドライブしませんか?島を見せてあげますよ」。

おかみさんからの思いがけない提案だ。

「あんた、何を、お客様はこれから鞆の浦にお出かけになる、言うてるときに」。

おばあちゃんがおかみさんを見る。

(鞆の浦はまたこの次だ)。

そう決めると、おかみさんのローバーに乗って、海岸沿いに出た。昨日の寒さとは打って変わって、天気がいい。島の反対側に来てみると、こっちは尾道水道側とはうってかわって、自然が美しく、工業的なものは何もない。ヨーロッパ人が大喜びしそうな、リゾート地である。

「私の好きな展望台にお連れしましょう」。

そういうとローバーは坂を駆け上がって、みるみる小高い山を登って行く。

「どうです?きれいでしょう?」

ついたところは向島でも有名な、しかしそれほどよく知られている訳でもない穴場的なスポット。展望台があって、向島の周囲が一望できる。そして、しまなみ街道が遠くに見渡せて、天気がいいと、四国の影が見えるところだ。

「いや、本当に素晴らしい環境ですね」。

それにしても何だろう。これだけの環境資源に恵まれたこの島なのに、全体的に寂れている。海岸もとても美しいのに人の気配が殆どなく、見たのは老人ホームだけだ。どうしたら、ここにもっと人が集まるのだろう、いや、集まらなくてもいい、でももっと豊かにこの土地をエンジョイしてもいいのではないだろうか。ヨットやウインドサーフィンなどのマリンスポーツ。スキューバダイビング。釣り、そしてビーチでのバーベキュー。ビーチに面した通り沿いにテラスを出してのんびりビールでも飲む。あるいは単に犬を連れて来て散歩していてもいい。少なくとも、これがヨーロッパであれば、こういった環境の周りに人が集まり、気に入った家をたて、のんびりと暮らし、あるいは休暇を楽しむだろう。環境のよさ、特に自然環境のよさは、お金で買えるものではない。だからこそ貴重なのであって、そこに人が集まってくるのだ。

「尾道は、これからどうしたらいいですかね?」

そんなことを考えていたら、ふとこんな会話になった。

「ここに住んでる人がまずは豊かに楽しく暮らす。それがいいのではないでょうか」。

そう言いながら、しかし、地方の行政について改めて考え直してみなければならない、そう思った。大きな規模の経済活動の中において、個人がばらばらに何かやっても焼け石に水だ。

そう思いながら、改めてもう一度この展望台からの景色を眺めてみた。

2009年3月27日金曜日

倉敷の酒場で。


その小さな飲み屋の名前は既に忘れてしまった。

倉敷の駅前の一番街というところだったと思う。小さなアーケード通りの店だった。店の外に「カレイの煮付け」とあったので、地元瀬戸内の魚かと思い、それに惹かれた。カラカラとスライドをあけて、店の中を覗いた。ちょうどコの字型にカウンターがあり、その奥に女性二人が立っている。

「1人ですけど、大丈夫ですか?」

「いらっしゃーい。どうぞー」。

語りかけるような、元気な明るい声。東京のとはやはり違う。さっと狭い店の中を見回すと、5〜6人が既に飲んでいたが、真ん中の席が2つ空いている。左には、夫婦らしき2人が。右隣にはサラリーマン風の3人が座っていた。3人のうち、すぐ右隣の人がタバコをふかしていて、その煙が椅子にかけるやいなや、すぐ目に入ってしみた。タバコの煙は好きではない。「ああ、しまった」と一瞬思った。ふとみると、タバコの箱がおいてあったが、どこのタバコか見当がつかない。

コの字型のカウンターには、大皿が4つ5つ並んでいて、そこに料理が盛ってある。どうやら、この中から選ぶシステムのようだ。多分そこから1人分をとって、暖め直してから出すのだろう。確かに、見てみると、カレイの煮付けのような皿もある。しかし、どれもこれも、見るからに、家庭料理。この2人でつくったんだろうなあ、と思わせる皿だ。求めていたものはこれだ、という思いと同時に、何とも言えない不安と後悔に一瞬襲われた。どうみてもすごい旨いものには見えなかったからだ。

「お飲物、何にしますー?はい、これおしぼりです」。

娘さんの方がおしぼりを出してくれた。母親と思しき方は少し奥に入っている。娘さんの方は一体いくつぐらいなんだろうか。最近東京ではあまり見ない真っ黒な黒髪で、どうだろう、30歳近くぐらいだろうか。やっぱりとても苦労している感じだ(あとで25歳だと分かった)。

こんなことを考えていた間に、ちょうどその日の午後美観地区を歩いていたときに酒蔵らしきものを見かけた記憶が思い出された。森田酒蔵だっただろうか。

「えー、ビール。あ。やめた。そうじゃなくて、ここの地酒がいいですね。地酒をお願いします」。

その地酒はガラスの徳利みたいなボトルで出てきた。おちょこもガラス。青い模様が少し入っている。

「えーと。じゃあ、カレイの煮付けと、このタコの和え物みたいなの、ください」。

今回の休暇で倉敷に来たのには特別の理由があった訳ではない。どちらかと言えば、大学時代からの知り合いでヨーロッパでも一緒だった友人を訪ねにいく、という明確な目的のあったのは、むしろニューヨークに行く方だった。しかし今回どうも気が乗らず、旅の準備もせぬままダラダラと休暇の直前まできてしまった。しかしずっと東京に居るのも、ということで、思い立って来たのが、この瀬戸内だった。しかし倉敷はこれまで何度か行こうとして結局行けずにいたところではある。昨年秋に徳島県の祖谷を旅行した時にも、前日岡山から備前焼の里、伊部に行った帰りに倉敷へ、と思いながらも時間切れで行けなかったし、その後、年末に仕事で水島に行ったときにも、あともう少し足を伸ばせば倉敷、と思いながら、結局素通りしていた。だから「今度こそ」という思いが少しはあった。

昨年まで4年間ヨーロッパはオランダのアムステルダムに住んでおり、オランダの田舎の美しさに魅了された。もっとも、東京に比べればアムステルダムも大いなる田舎。東京に戻る、と考えただけで、早くもストレスを感じるぐらい、アムステルダムは穏やかで、人間的な規模の街だった。「日本に帰ったら、田舎のいい街を探してみよう」。そういう思いがとても強くなっていた。

その中で今回倉敷を選んだのは、昔ながらのきれいで趣のある街並を見たかったからだ。それと、江戸時代、徳川幕府の御領として年貢米の集積地となったことで栄え、豪商を生み出したこの街の歴史と現在をこの目で見、そして考えてみたかった、というのもある。倉敷と言えば、大原美術館で名が残る大原財閥の出所。大原財閥によって、倉敷紡績、クラレ、中国電力、中国銀行、など蒼々たる企業が次々と興されたのであり、大原財閥は当時「倉敷一」のレベルを遥かに超えていた。

時は幕末から明治維新にかけての混乱期。江戸の経済が、米、醤油、酒造、そして呉服、などの一次産業を中心に潤っていたのに対して、この頃一気に台頭したのが、紡績業。まさに商業から工業へ。当時、日本経済全体のうち紡績産業の占める割合は何と7割にも達していたという。これはものすごい割合である。一つの産業がここまでのウエイトを占める例は、後にも先にも、この紡績以外にはない。現代にも残る多くの企業はこの時代に、紡績産業を中心にして、生まれたケースも多い。世界のトヨタも、その起源は豊田紡織であるし、泣く子も黙る日本の総合商社も、ニチメン(日本綿花)、トーメン(東洋綿花)など「綿」を紡績工場におさめる商売が流行った。尚、トーメンとは三井物産の綿花部が独立した会社である。

しかし、紡績業の台頭というのは18世紀以降の世界的現象である訳で、考えてみれば、フランスとの七年戦争に勝利して、国際政治においてヘゲモニー(覇権国)の地位を確立したイギリスが、リバプールの奴隷貿易によって集積された気の遠くなるほどの莫大な資本の上に、マンチェスターで花開かせたあの産業革命、あれもやはり紡績業が中心だった。そう考えると、日本における紡績業の台頭自体は不思議なことではない。しかしいずれにせよ、倉敷の大原財閥というのは、そのような時代にあって、現代にも残る大企業をいくつも創立させたとてつもない大富豪であったということは間違いない。

倉敷の街はJRの駅から南に中央通りを歩いて行くと、10分もしないうちに、美観地区の入り口に到着する。交差点を左に入ると、一瞬映画のセットかと思わせる雰囲気。少しいくと倉敷川が現れ、この両側に大原家住宅と大原美術館がそびえ立つ様は圧巻である。しかしヨーロッパの歴史ある街で受けるような圧倒される感じや怖れを抱くようなものはない。きれいでもの静かな街並といった印象だ。

倉敷の美観地区はこの倉敷側に沿ったエリアと、川に平行してもう一本有名な通りがあり、これが本町通りで、歴史的にはこちらの方が古い。倉敷川沿いに屋敷を構えていたのは、当時の「新興勢力」であったようだ。この隣接する二つのエリアが互いにしのぎを削った過去が思い偲ばれる。もちろん勝利したのは大原財閥の新興勢力の方だった筈だ。

この倉敷の美観地区、これが実は非常に狭い。すぐに全ての通りを歩けてしまう。軒を並べる白壁の美しいお屋敷を見るのは楽しいし、また表札などからして、現在でも誰かが住んでいることを思うと羨ましい気持ちにもなる。しかし全体として受ける印象としては、この美観地区は見事なまでに、圧倒的に「観光地」なのであり、人々の延び延びとした豊な暮らしがそこにある、というものではない。この辺はオランダと大きな違いがある。オランダでは、アムステルダムでも、ユトレヒトでも、ライデンでも、そこに大勢の観光客が集まる場所にあっても、まず現地の人々の豊かな暮らしがある。天気がよければ、運河で優雅にボートに乗って、古い教会を眺めながら、ビールを飲んでいる。17世紀に遡る由緒ある計量所の立派な建物は、オランダではどこにいっても、今はカフェだ。その場所を人々が日常的にゆったりと使い、エンジョイしている。そういう風に、何気ない日常生活の一部に、美しいものが贅沢なほどあふれている、そのことは疑いなく、質の高い、豊かさだと思う。そして、そういう地元の人が楽しんでいるのを見て、観光客も「ここに住めたらいいだろうなあ」と思うものだ。彼らオランダ人にとっては、まさに、そのような楽しみを実践できることがそこに住む大きな理由であり、もし過去の歴史をショーケースに入れたまま、大事に外から眺めるだけのような街なら皆出て行ってしまうだろう。

それに比べて倉敷の街はどうだったか、というと、日本の他の街に比べて、特別に倉敷の人が豊な暮らしをしている、という印象は今回は残念ながら感じることができなかった。もちろんあのようなきれいな美観地区がある、というのだけでも素晴らしい。しかし美観地区は狭い。そして美観地区の外にでれば、もはや倉敷にいるのか埼玉にいるのか分からない。大多数の人は、そのようなエリアを中心に生活している筈だ。

「地方の暮らしは東京よりも豊かな筈だ」。

こう思っているのは私だけではないだろうが、特に自分にはこの幻想が強かったのかも知れない。倉敷にくるにあたって、過大な期待を寄せていた可能性もある。それはアムステルダムが、パリやロンドンに比べると地方色があり、田舎街だったからだろう。しかし素晴らしいアムステルダムの街が田舎街であるからといって、全ての田舎街が素晴らしい訳ではない。しかし日本の田舎には、アムステルダムに匹敵する豊かな街はあるのだろうか。。。。

「お二人はどちらからいらしているんですか?」

おちょこを置いて、左隣の夫婦に聞いてみる。

「三原です」。

「三原ですか。じゃあ、わりと近いですね」。

「この人がここで仕事してるんですよ」。

「三原はいいとこですか?」

女性は無言で顔を歪めて横に振った。

「はーい、これから歌を歌いますよー、この娘が」。

少し奥にいた母親が前に出て来て語りかける。カラオケでもあるのかあ、とお客。ないわよー。アカペラかー?よおーし、と場がにわかに盛り上がる。さっきまでタバコをふかしていた右隣の「加山さん」が声をあげて場を盛り上げる。「加山さん」というのは、ニックネームで、三原の男性が「加山雄三にちょっと似てるんじゃない〜」といったから、この晩は加山さんで通っていた。一方、三原の人は、「二宮さん」。これは、スポーツジャーナリストの「二宮清純」に似ている、と自分がいったのが、おおいにウケて、「おう、そうだ、そうだ。二宮さんだ!」と皆が喜んで呼ぶようになったためだ。ついでにいうと、加山さんの右隣の人は、「ムツゴロウさん」。言われた本人は不満そうだったが、またまた自分が調子に乗って言ってしまった。更には、そのサラリーマン風の3人を飛び越え、コの字型の一番先頭の奥に独りで飲んでいたおじさんの方を見て呼んでみた。「あれ?あそこにさんまさんが居ますよ。ねえ、さんまさん!」。その人がこちらを見て、照れながらにこりとすると、これがまたさんまによく似ている。皆、大爆笑。「ほんとだ、ほんとだ、こりゃ、面白い。さんまさんだ、さんまさんだ!」。皆、勢いがついてきた。すると、「じゃあ、これはどう、これは」。とムツゴロウさんが、右に座っているもう1人の部下らしき人を差す。「いいんですか、言っちゃって?」「いいよ、いいよ、言ってみてよ」。では、、、

「豊田章男!」。

「あ。いいなあ、いいじゃない。ずるいよ。豊田章男」。ムツゴロウさんがひがんでみせる。大企業のサラリーマンと思しきこの方々からして、どこの馬の骨かも分からぬモノから、突然、世界のトヨタの社長に似ていますよね!、と言われるのは本人も悪い気はしないようだ。しかし、それにしても本当によく似ている(笑)。「しかし、あなたも幅が広いねえ、二宮清順にさんまさんに豊田章男ときたかあ。インテリだねー」。

こうして、まだ日本酒のボトルが半分も空かないうちに、既に殆どの人の名前が決まっていた。そんなところに歌が入ったものだから、いよいよ活気づいてくる。三原の人が何か言うと、「お。さすがー、二宮さん、いい解説するねー、おい!」。「加山さんも一曲いったらいいんじゃない?えー。はははは」といった具合に、大いに盛り上がっきた。

「よし、あれいってくれ、あれ!」「誰よ?」「石川さゆり!」

加山さんが身を乗り出す。このお店の子の歌は最初「島唄」から始まったが、見事な歌いっぷりで、皆思わず聞き入ってしまう。歌が巧い、というのか、とても真っすぐな感じが歌を通して伝わってくる。

「はーい、ワンツースリーフォー♪」

母親がいつもの調子で指揮者のように手を小さく振りながら音頭を取る。これがことごとく歌のリズムにあってないのが少し気になっていた。

「隠しきれない、移り香が〜♬」。

とはじまると、皆「おおおおー!!」と手を叩いて、大喜び。殆どクライマックス。

「何がああっても、もういいの〜♪」(イエーイ!!!)

「あなたと、越えたい〜♪」

ここで加山さんがばっと立ち上がって、一緒に熱唱した。

「天城〜越〜え〜♬」

「わわああわー!!!!」

「いやー、最高。いいねー」。

僕はねえ、大企業の営業部長やってるんだ。今回は出張で倉敷に来てるんだけどね。いつもは、全世界でビジネスをやってるんだよ。自分にさっきそう語っていた、加山さんが、最高潮に達した。

「この子はねえ、あたしゃ、3歳の頃から、ヤマハ音楽学校に入れたんだからね。3歳だよー、本当に。よかったよー」。ママさんが得意そうに皆に向かって話す。少し口を大きくあけると、右の方の前歯がないのが、目立つ。

「この漬け物食べない?おばあちゃんの手作りだよ」。「じゃ、あたし頂くわ」と三原の人。

どうやら、女性3代でこの小さな店をやっていることが想像される。おばあちゃんの娘がこの前歯のないママさん。そしてこのママさんの娘さんが、真っ黒な髪のこの歌い手さん。本当に小さな店だ。25歳のこの子は毎晩、ここで、こうして歌を歌っているのだろうか。しかしそんな境遇を嘆いている様子はかけらもない。

「あ、次は、私の好きな歌を歌ってもいいですか?」

これまでリクエストばかり受けてきたこの娘が、今度は自分から曲を言ってきた。

「ヨイトマケの唄」。

「えー?いや、知ってますよ。美輪明宏さんの歌でしょ」

「ねえ、かあちゃん、早く早く。あれやってよ。ワンツーってさあ」。

さっきまでノリノリで娘を自慢していたママさんが、今度は表情変えて、なかなか手を振ろうとしない。ようやく、何度か娘に言われて、小さな声で、渋々いつものワンツースリーフォーをすると、すぐに引っ込んでしまった。

その唄は、こうやって始まった。

「今も聞こえるヨイトマケの唄 今も聞こえるあの子守唄〜」

「子供の頃に小学校でヨイトマケの子供きたない子供と いじめぬかれてはやされて くやし涙にくれながら 泣いて帰った道すがら 母ちゃんの働くとこを見た 母ちゃんの働くとこを見た〜」

「帰って行ったよ学校へ 勉強するよと云いながら 勉強するよと云いながら〜」

「どんなきれいな唄よりも どんなきれいな声よりも 僕を励ましなぐさめた 母ちゃんの唄こそ世界一 母ちゃんの唄こそ世界一〜」

となりの三原の女性を見ると、すでにハンカチで涙をふいている。ママさんはカウンターに腰をどっしりおろしてしまって、涙が止まらず、仕事どころではない。

「俺も、九州出身なんだけど、親に土方やってもらって、学校いかしてもらったんだよ」。加山さんの目にも涙が浮かんでいる。

さっきまであんなに盛り上がっていたのがきゅうに静かになった。そして一人、二人と帰り始めるお客さんたち。二宮さんも立ち上がると、加山さん、豊田さん、ムツゴロウさんも立ち上がった。そして、皆お互いに握手をして、店を後にした。自分も最後に一人残るさんまさんと握手をして、店を出た。

外に出てみると、改めて寒さがしみる。この季節なのに、ぐっと冷え込んでいた。ふと空を見上げると、夜空には星がたくさん。ホテルまでの道すがら、久しぶりに星座を探しながら、地酒でほろ酔い気分で、歩いて行った。

「しかし、一体なんてことだ」。

ちょっと前まで、オランダの運河のボートの事とか、豊かさの事とかを考えていたのが滑稽にすら思えてくる。あの二人は、毎晩ああして歌をうたって、生活してるんだ。こうして苦労しながらも頑張っている人達のことを決して忘れてはいけない。それにしても、あの母と娘の愛情に胸をうたれる。

ホテルに入る直前に、もう一度空を見上げてみた。オリオン座がかすかに滲んでいた。