2009年12月19日土曜日

ゴルフ修行inゴールドコースト

先週は一週間休暇を頂いて、オーストラリアはゴールドコーストへと行ってきた。目的はもっぱらゴルフ修行。今シーズン不甲斐ない成績で終わっていたことから、来シーズンに向けて、「何かを得たい」という気持ちが強く、思い切ってオーストラリアのゴルフスクールへ短期で入ってみることにしたのだった。この時期、南半球のオーストラリアは現在真夏のハイシーズン。ブリズベン空港から南に1時間車を走らせたサーファーズパラダイスにはサーファーや観光客で賑わっている。しかし、自分はこのサーファーズパラダイスを素通り。そのままもう少し南へと車を走らせ、海岸から15分内陸のVarsityLakeのアパートへと向かった。到着してみると、これが素晴らしく広々としたアパート。洗濯機と乾燥機が完備されている他、リビングには大型テレビとステレオが。そして素晴らしく大きいキッチン!

翌朝早速ゴルフ場に車を走らせ、スクールに顔を出すと、ティーチングプロのオーストラリアの女子プロAnnと面会。Annは現役時代はオーストラリアのツアープロでありプレーヤーとして非常にレベルが高いだけでなく、シンガポールのナショナルチームのコーチを行うなど、ティーチングプロとしての経験も豊富だ。実際Annは素晴らしいグリップとバックスイングをしていて、Annのスイングを見ているだけで勉強になることが多かった。

最初に簡単なオリエンテーションを済ませると早速「仕事」に取りかかった。まずは軽くストレッチをして、それから球を打ち始めてウォームアップ。20分ぐらいボールを打つと今度はスイングをビデオにとって、オフィスの中へ。パソコンをつかってスイング解析を行った。これまでも自分のスイングをビデオにとったことは何度もあるが、しかしいつみても「がっかり」するものである(笑)。しかしこうしてビデオを見ながら、何を直さなければならないかをAnn話し合った結果、「まずはバックスイングを直そう」ということで合意した。ビデオにとってみると明らかであるが、自分のバックスイングはスイングプレーンを外れてインサイドに引き過ぎていたのである。その結果ダウンスイングで手首のローリングを使ってフェースをインパクトで合わせる動きが癖になっていた。「なんて酷いフェースの使い方なの!」思わずAnnものけぞった。「こんなに位置からクラブフェースを最後に合わせていけるなんて、あなた凄い運動神経があるわ。でもこれではいつかミスが出てしまう。まずはバックスイングでの手の使い方をマスターしましょう」。そうして、そこからは、Annが組んだメニューに従って、まずはスイングプレーン矯正器具を使って軌道の確認を行って、その後15分ボールを打ち、今度は鏡でバックスイングの軌道を確認。そしたらまた矯正器具に戻って練習、このルーティンを徹底的に繰り返すことにした。

実は自分は今シーズン時々「シャンク」というミスに悩まされていた。シャンクとはクラブフェースが極端に開いて入って来て、場合によってはクラブのネックの当たりにあたってボールが真横に飛んでしまうという、とんでもないミスである(笑)。しかし実はこのミスはプロでも出ることがあるもので、あのタイガーウッズでさえ試合でシャンクのミスをしたことがある。自分もかつてシャンクが出た事があったが、しかし最近はそれが試合でもよく出て困っていた。試合でシャンクが出てると、一気にスコアを崩してしまうため、シャンクの克服が一番の課題だったのである。そこで自分なりにいろいろ考えてみたが、クラブが開いてくるということで、最初からクラブフェースを閉じて上げようとして、徐々にインサイドに上げるようになっていったのだが、実はこれが全くの逆効果!で、これによって、ダウンスイングで右手が下から入り易い状態をつくってしまっており、実はこれが原因でシャンクが出ていたのだ!今回Annのアドバイスでスイングを変えてみて、この事がはじめて分かった!実際、先週は3回のラウンドをしたが、シャンクは一度も出ずに済んだのである。

このようにして、スイングの矯正と、それ以外にグリーン周りのショートゲームの練習をして、初日はあっという間に過ぎたが、目から鱗の手応えの大きい一日であった。

さて、だいたい17時頃に練習を終えると、そこからのパターンはもうだいたい決まっていた。何しろ、真夏のオーストラリアの日差しを受けて、35度の気温の中での活動で、17時にもなるとへとへと。スーパーによって、食材を買い出し、家に帰ってビールを飲んで夕飯を食べてすぐに寝てしまう、の繰り返しだ。しかし、本当に暑いので、身体を冷やす必要がある、ということで、とにかくスーパーにいくと、トマトやキュウリなどの夏野菜を多く買い込み、これらを食べただけでなく、日焼けの酷いところには、きゅうりの輪切りを貼った(笑)。あとは、毎日大きなキッチンをゆったり使って久しぶりのヨーロピアン料理を楽しんだ。

買い出しは近所のとてつもなく大きいショッピングモール、Robina Town Centreに行く事が多かったが、オーストラリアはさすが食料自給率200%だけあり、食材は非常に豊富だ。陳列棚の間を歩くのが非常に楽しい。折角なので、日本ではあまり食べられないものを食べようということで、野菜ではクルジェット(ズッキーニ)などを買ってみた(左はクルジェットのパスタカルボナーラ)。それ以外は、やっぱりオーストラリアは肉が美味しいので、まあ、毎日カロリー消費は多いのでいいだろう、ということで、殆ど毎日肉を食べていたが、とくに子羊が大変美味であった。子羊は保温効果があるので、本当は熱射病になりそうなときに食べるのはよくないのであるが、その味にあっさり負けて、何晩か子羊を楽しんだ。ローズマリーのハーブとの相性が何しろ抜群である。

さて、こんな感じで毎日が過ぎて行き、朝は6時に起床。朝食を食べてカフェオレを飲み、昼の弁当を作って、8時にはゴルフ場へ。昼の弁当をつくっていくというのが、オランダ時代の社交ダンスの試合を思い出させて懐かしい感じがした。そして、17時まで練習とコースのラウンドをして暑さと疲れでバテバテになって、家にたどり着いたら、ビール一杯飲んでから、料理に取りかかる。こんな様子で殆どゴルフ一色。おまけに丁度行った週がAustralian Open ChampionshipとAustralian PGA Championshipの週に挟まれていたこともあり、テレビでもゴルフをよく見ていた。

このゴルフスクールには自分以外にも15名ぐらいの人がいて、殆どが1年単位で滞在している(中にはプロを目指している人もいる)。国籍は圧倒的に韓国が多い。最近の韓国は女子プロの世界的躍進が凄いだけでなく、男子でも昨年はタイガーを一騎打ちでやぶったY.E. Yangが国民的スターになっている程。国民的ゴルフ熱が高い。それ以外にもイギリス人のRay。彼とは2度一緒にラウンドしたが、彼は190cmの長身でゴルフの母国イギリスのシングルハンデ。オーストラリアの海岸沿いの強風の中でも、ノックダウンショットで低く球をコントロールする技術に優れており、最終日のコンペでは3ホール連続バーディのおまけ付きで36-34の通算2アンダーで周り、優勝を飾った。しかし何より驚いたのが、彼の本職がblacksmith(鍛冶屋 or 馬の蹄鉄打ち)であったことだ!それ以外には、タイ出身のタード。タイに帰ったら何するの?と聞いてみると、「ゴルフ」と返って来た(笑)。27歳の彼は家が大変裕福らしく(封建領主のような家なのだろう)、生まれてこのかた仕事をしたことがないとか。こういう人に会うと、改めて「働く意味」ということを考えさせられる。自分は仮にお金に困ってなくても仕事をしたいと思うだろう、それは仕事を通じて得られるものが大きいからだ。しかしまた逆に考えてみると、仕事ができる環境にあるのであれば、お金のために働くというのでは、あまりにも惜しい、ということだ。

このように実はゴルフだけでなく、いろんな人との出会いもあり、なかなか得る物が多い一週間となった。ちなみにオーストラリアについては、今回で訪問するのが、4回目。最初は高校生の時に奨学金を頂いてシドニー大学に2週間滞在。その後は、ケアンズでダイビングをして、2年前には仕事でメルボルンへ。ゴールドコーストは今回が初めてであったが、今回の印象としては、かなり「バブル」な印象であった。確かにオーストラリアは資源国で、原発に不可欠なウランの埋蔵量も世界屈指で豊富。今後も期待される新興国の経済成長に伴う資源需要で潤うのは間違いないだろう。しかし感覚的には、人口に対して、住宅が立ち過ぎの感あり。人口で言うとオーストラリア全土でも2200万人、Queensland州では400万人だ。その割に新興住宅地が非常に多く発生している。ぱっと見供給過剰であり、今後の不動産バブルが気になる。

それ以外に今回思ったのは、タイ出身のタードのように、世界にはうなる程お金を持っていて、使い道に困っているという人が大勢いる、ということだ。勿論、20世紀に最もお金持ちとなったのはアメリカの一部の人達であったが、タイなどの東南アジアや、中東のオイルマネー、ロシアの資源マネー、それ以外の地域でも、勿論日本を含めてとにかく使い道に困る程お金をもっている人はどこの国にも大勢いるものである。オーストラリアのゴールドコーストという土地が、そういう人達を惹き付けているのは間違いないだろう。何が要因かといえば、大きなものはやはり環境だろうと思う。海と太陽があって、人が少ない。そして英語が通じる!とにかくこういう人達を相手に商売ができる、というのは楽だ(笑)。

一方でふっと思ったのは、ちょっと飛躍しているが、世界中で皆が英語で話すようになったら、なんてつまんない世の中になるのだろうか、ということだ。特にオーストラリアがアメリカと同じく(アボリジニーは別として)移民が始まってからの歴史が浅くカルチャーに乏しいせいもあったかも知れない。英語以外の言語にももっと親しむようにしたいと何故か思った一週間であった。






2009年11月29日日曜日

第6回サロンdeリオ: The Taste of Winter

昨日第6回サロンdeリオを開催。

今回のメンバーは、サロン常連の議員秘書H氏と国際金融マンのK氏。それから今回初参加の記者T氏に、同じマスコミ関係のS女史。更に外資系のマーケティング会社のC女史と同僚でいつも週末忙しくしているM女史に急遽集まって頂いた。

というのも、今回は、福井の親戚から何と今が旬のズワイガニを発送してもらうこととなったため。オスのズワイガニは20歳ぐらいのかなり立派なもの。ちゃんと足にも越前ガニのブランドを示す黄色いタグがついている。東京マラソンを控えて今日も走り込みをして空腹のT氏はじめ、カニを囲んで暫し無言で手が伸びる。たくさんのカニではあったが、あっという間に殻の山が築かれた。

さて、今回スターターが越前ガニ、というサロンdeリオ創設以来最も贅沢なコースであるのは間違いなかったが、越前ガニの後を何で繋ぐかには、結構頭を悩まされた。まさか、カニで日本酒を飲んでいるっていうのに、その次からヨーロピアンに変える訳にもいかないし、やはり日本酒が美味しく飲めるように、何か素材を活かしたシンプルなものにしよう、ということで伊勢丹に買い出しに。しかし、いいアイディアが見つからず、結局何も買わずに別のスーパーを当たってみたが、最後に手頃な鮟鱇があったので、昆布出汁だけの鮟鱇鍋に決定。その後も、鳥鍋に移行して4時間以上も飲んで食べて、大いに語って盛り上がった。食事が終わると、持ち寄って頂いたデザートに。行列ができて午後には売れ切れてしまうという貴重な吉祥寺のチーズケーキに、上品で取り分けのし易いワッフルを皆で頂き、最後はインドの紅茶でしめ。

今回は常連の2名が中心となるも、それ以外は初参加の多い会であったが、沢山のお酒やカニを囲んで、すぐに打ち解けた雰囲気となり、マスコミ、政治、資源ビジネス、鵜飼、など幅広い話題に花が咲いた。また、翌日が誕生日であったこともあり、12時過ぎまで残ってお祝いもして頂いた。

お集り頂いた皆様、本当に有り難うございました!




2009年10月16日金曜日

コーヒーチェーンにて。

「実は、今日が最後なんですよ」。

いつも出社前にコーヒーを飲んでいるタリーズコーヒーにいつものように足を運ぶと、てきぱきと気持ちよくお客さん対応をする店長さんらしき人から、注文の際にこのように伝えられた。

この店長さんらしき人は、見た目の年齢は20代後半ぐらいに見えるが、とてもしっかりしているので、実際にはもっともっと年上の人かも知れない。

声が大きく、店内によく通る声で挨拶する。

「ありがとうございました!いってらっしゃいませ!」

実は、この店に通うようになる前は、向かいにある別のチェーン店に行ってコーヒーを飲んでいた。それは、その後電車にのるのにそっちの店の方が駅に近いからである。しかし、あるときタリーズコーヒーに来てみると、この店長さんの対応がとても気持ちよかったため、それ以来こちらのお店にくるようになっていたのだ。

タリーズコーヒーでの接客業は、決して複雑なことをもとめられるものではないだろう。入ってくるお客様を迎え、注文をとり、会計をすまし、コーヒーを入れる。それぐらいの工程である。しかし、この店長さんがやると、他のバイトの人とは、明らかに違う。これだけの工程のものなのに、これ程までに差が出るものか、と思わせる程だ。そして客足が弱まると、バイトの店員さんにいろいろと指導を行っているが、これを聞いていると、店長さんがいかにサービスの細かいところに気を配っているかがわかる。

しかしだ。「今日が最後なんですよ」という言葉を聞いて、「そうなんですか!それは残念です」と思わず言ったものの、その瞬間、「この人は実はバイトだったのだろうか。だとしたら、いったいどんなバイトの人だろう」と思っていた。サービスやブランド理論の本を読むと、いろんな素晴らしい例が出てくる。素晴らしい例の共通点というのは、コーヒーチェーンの店員でも、バスのドライバーでも、だいたい自分の仕事をそのような枠にはめて考えるのではなく、自分のミッションを定義しなおして行動できる、というところにある。この店長さん、あるいはバイトの方は、まさにそういう人なんだろう。

「いつも本当にどうもありがとうございました。またいつかどこかで何かをはじめられる時はぜひご連絡ください。いつでも顔を出しますので」。

といって、自分の名刺を帰り際にお渡しし、そのまま会社へと向かったのであった。

2009年10月6日火曜日

日本女子オープンゴルフ


一昨日の土曜日に、日本女子オープンゴルフ選手権を見に行って来た。

女子ゴルフは現在スター選手揃いで見所が満載。今回も今年アメリカで勝った宮里藍ちゃんはじめ、上田桃子、横峯さくら、今年6勝の諸見里しのぶ、古閑美穂、今年3勝の有村智恵など。スタート時間に合わせて選手が順番に練習場に姿を表すと、それだけでギャラリーも沸く。こっちも朝早くから行って、練習場の一番前に陣取り、各選手のスイングをしっかりチェックした。

しかしさすが日本一を決める大会の決勝ラウンド、どの選手も本当に素晴らしいボールを打っている。クラブが上から入って来て、ボールをクリーンにヒットするその打ち方は、アマチュアとは全く違うといってよい。しかも下半身が静かで、インパクトまでが本当に丁寧に入ってくるので、ショットが全くブレない。

しかし今回びっくりしたのは、何と言っても韓国勢の多さだ。結局優勝も韓国のソンボベ選手が勝ち取っただけでなく、ローアマ(アマチュアの1位)も韓国の高校生が取って行ったが、それ以外にも、昨年度の優勝者である李知姫、今年の全米オープンチャンピオンであるチウンヒなど。それ以外にも、それ程知られてないが、シンヒョンジュや黄アルムなどがいて、本当に素晴らしいスイングでボールを打っている。韓国勢を見て思ったのは、ひとつに皆身体が大きいこと。優勝したソンボベはじめ李知姫も170cm級である(だから、ボールもかなり飛ぶ)。それに比べて、優勝を逃した横峯さくらや宮里藍などは155cmなので、並ぶと二周りぐらい小さく見えてしまう。

そんな韓国勢の中で、最も凄いなあと思ったのは、今年日本で3勝している全美貞(ジョンミジョン)。まず、彼女はテレビで見るより遥かに大きい。身長は175cmで、一緒に回った日本の飛ばし屋三塚優子(172cm)と並んでも一周り大きく見える。彼女のスイングはこの長身を活かしたゆったりとしたもので、ウェッジからドライバーまで一定のリズムでボールをヒットする。アドレスはどっしりとしていて完璧なアラインメント。ここからテイクアウェーは上半身主導で捻って行くが、トップでのクラブの位置が完璧。さらに、トップからの切り返しのタイミングが絶妙で、下半身主導のダウンスイングに入る一瞬のタメのつくり方には、惚れ惚れする。男子ゴルフでいうと、アーニーエルスを彷彿とさせる美しいスイングだ。

今回は全美貞について18ホールのプレーをみたが、軽く放つショットがどれも素晴らしく正確であり、ラフやクロスバンカーからも正確にグリーンを捉えるショットメーキング技術には本当に感嘆するばかり。結果は68の4アンダーであったが、パットがもう少し入れば7アンダーの65は軽く行けたであろう、といった内容のプレー。今回は上位に食い込むことができなかったが、これから後半戦、必ず優勝争いに加わってくる選手だ。

現在女子ゴルフの世界では、米女子ゴルフツアーも韓国勢が完全に席巻している状態。何故韓国勢が急にこんなにも強くなったのか、その理由は分からないが、とにかく韓国勢は強い。メンタルに強いこともあるだろうが、技術がしっかりしている。今後米ツアーは不況でスポンサーが減ること考えると、これからもっともっと韓国勢が日本でプレーすることになるだろう。ゴルフ界における韓国勢の躍進はまだまだこれからかも知れない。

2009年9月23日水曜日

デフォルトネットワークのプチサロン


久しぶりのエントリー。

この数ヶ月は、仕事的にも忙しく北米やら欧州やらに出かけることも多かったが、一方世間でも民主党新政権が成立し、いよいよ日本の政治も変化の時期という様相。昨日の鳩山首相の国連演説でも、随分緊張して固くなっているように見えたが、内容としては、温暖化ガスについて、90年対比25%削減を目標とする、と言い切ったあたり、おそらく産業界との調整はまだだったろうことからして、強力な政治のリーダシップを発揮する姿勢がはっきり見えたと言えるのではないか。

さて、民主党政権の誕生した8月30日の日曜日、私はとある友人の招待により、ボリショイサーカスを見に行っていたのだが(勿論、ちゃんと投票をした後で)、そこで一緒だった講談社の雑誌の編集をしているKさんが、茂木健一郎氏の話をしていたので、最近一冊本を読んでみた。これによると、脳にはデフォルトネットワークという部分があって、この部分は忙しくしていたり、何か特別な目的を追いかけているときには、活発にならず、むしろぼんやりと、無目的に散歩などしているときに、よく働く部分だそうで、これが働いているときというのは、脳が面白いこと、創造的なことを探している時なんだとか。要するに、脳には適度なアイドリングタイムが必要で、そのような時に、面白いことを発見できたり、いいアイディアが生まれたりする、ということらしい。

そんなこともあって、この5連休は無目的に過ごしてみよう、と思って特に最初の二日間は、モスクワから戻ったK氏と、上記の雑誌の編集者でロシア担当のKさんを招いて、ロシアンスペシャルということでプチサロンを急遽開催(急遽で声をかけられなかった方々、すみません。今回はプチということで、また通常サロンを近々開催します!)。二人ともお酒が好きなこともあって、いやあよく飲んで、結局朝までコースで大いに盛り上がった。

ロシアンスペシャル、といっても、今回の料理はイタリアン。アンティパストは先週オランダから持ち帰ったチーズをつまみながら、アペリティーヴォでシャンパンを飲み、プリモピアットはゴルゴンゾーラのリゾットときのこのソテー。ライスはリゾット用がなかったので、「ミルキークイーン」を使ったら、結構よくあった。ゴルゴンゾーラチーズとグラナパダノの風味がよく出ていて、濃くのあるいい感じであった。セコンドピアットは、かじきのグリル。シンプルに塩こしょうしてオリーブオイルをかけて、グリルしただけ。あとは、ソースと言える程ではないが、レモン汁とエクストラバージンオリーブオイルにミントとタイムを加え、あとは塩こしょうで味付けしたものをかけて終わり。オーブンがないので、グリルか煮込み系しかできないのであるが、赤ワインを飲む事を考えたら、かじきぐらいの油ののった魚のグリルがよかろう、ということで、選んだものだが、ワインのつまみとしては、十分であった。

最後のドルチェ(の前にチーズをもう少し食したが)は、サロンデリオの弱点であったと認めざるを得ない。多少いい訳をすると、オーブンもミキサーもないので、デザートはどうしても難しいのであるが、言い訳ばかりもしていられないだろうということで、今回はティラミスをつくってみた。これは最近イタリア人の友人の女性が作ってくれたのが非常に美味しかったので、思い立ったものであるが、ネットでレシピを調べてみると、何故か「オーブンで焼いて...」みたいなのが多く出てくる。

さすがに、これは違うだろう、というのは私にも分かったので、どうしようかと思ったが、神戸でイタリア料理を教えていらっしゃる知り合いにアドバイスを求めたところ(本当はプロにこういうことを聞いてはいけないのですが)、ご親切にもごくごく簡単に作り方を教えて頂いた。

これを参考につくってみたのが、こちら。ちょっと甘さが足りずに上品な味となったが、まあまあの出来だったかな。何度か作るともう少しこなれてくるでしょう。

さて、デフォルトネットワーク状態で、ゆったりと食べて飲んで多いに語ったこのプチサロン。何か創造的ないいアイディアが生まれたかというと、そういうことはないが、過去数年思い返してもそうはないというぐらいに、大変リラックスできたことは間違いない。特にその前の週の欧州での苦労やトラブルを忘れ去るには、少なくとも十分過ぎるいい時であった。

2009年6月22日月曜日

第4回サロンdeリオ:The Farewell Dinner

昨日、第4回サロンdeリオを開催。今回は、昔からの友人で、この度、京都の福知山の近くに古民家を購入して、そこに拠点を移そうとしているSさんのフェアウェルディナー。Sさんは、昔ながらの趣のある古民家を改装して、日本を訪れる(教養ある)外国からのお客さまに、通り一遍でない、ニッポンの観光体験を提供することをもう長い間構想していて、今回ついにその第一歩を踏み出すこととなった。Sさんは、もてなしが非常に上手なので、きっとはるばる外国からくる人の中にもリピーターが出てくることだろう。

さて、今回はそのSさんの送別に、共通の友人4人が雨の中集まり、合計6人での開催となった。主に投資家向けの通訳をされているSGさんは、雨の中にもかかわらず、なんと着物での初登場!サロンdeリオの格付けも急上昇した。それから、前回も来てくれた新婚のI君と奥さんのSCさん。奥さんのSCさんは、今回初参加。それと、もうおなじみのご近所レギュラーのH氏。

今回は、Sさんから事前に「今回のテーマは何?」と聞かれていて、しばらく考えていたのだが、「これ」というのがなかなか思いつかずに、今日になってしまったところ、朝から生憎の大雨。買い出しに行くのも容易でない大荒れの天気だったので、「うちにいてほっとする料理」(英語で言うところのcomfort food。洗練されている食事ではないが、シェフなんかが家に帰って食べたいと思うような料理だ)にしようと思った。で、スーパーに行くと、肉類はいまいちな一方、はまぐりや魚はまあまあだったので、メインは具沢山のフィッシュスープに決定。フィッシュスープは、スペイン語では、Sopa de Mariscos(正確に言うと、これはフィッシュではなく、海鮮のスープの意味だが)というのがあって、特に魚介の美味しい北スペインのそれは本当に美味であるが、私は以前北スペイン人10人にSopa de Mariscosをつくったことがあって、これはスペイン人が日本人に味噌汁をつくるようなものだが、それでもかなり喜んで貰えたこともあって、今回もスペイン風のフィッシュスープに自然となってしまった。

あとは、フィッシュスープをソースにしてパスタかリゾットを作ろうと思ったが、一昨日新宿でロシア語のレッスンの帰りに伊勢丹のデパ地下によったら、セモリナ粉があって、買っておいたので、手打ちのパスタをつくることに。うちで一人分だけなら、適当にやるところであったが、今回はSさんの送別会ということで、パスタマシーンをつかって、きちんとつくってみた。手打ちバスタは狭い家でやるのは結構大変で、レギュラーのH氏のアシストがなければ、まずできなかっただろう。きったパスタを麺棒にひっかけて暫く持ってもらってパスタを「干す」ことができた(Hさん、ありがとう!)。具沢山のフィッシュスープから出た出汁を少し煮詰めてからめたタリアテッレはなかなかだった。

最後は、またしても、T監督制作のIさんSCさんのビデオ上映会を実施。何度見てもよくできているビデオであった。

2009年6月8日月曜日

第3回サロンdeリオ:The Return of "K"

昨日、第3回サロンdeリオを開催。今回は、昔からの友人である国際金融マンのK氏が4年間のモスクワ生活を終えて帰国したばかり、ということで、K氏の帰国お祝いパーティ兼、先日ご結婚したばかりのI氏の結婚ビデオ上映会、という超豪華版。

今回の参加メンバーは、K氏とI氏に加えて、昔からの仲間である、ジャーナリストのN氏(今回初参加)、すっかりサロンdeリオの常連となった、政治家秘書のH氏、ばりばりの金融キャリアウーマンでありながらフードコーディネーターのT女史(数年ぶりの再会)、留学時代の仲間でかつて一緒にニューヨークのブティックを冷やかしたS女史、それから、今では主婦となったY女史が元気な4歳の娘さん、それからテキサス在住時代のご友人、M女史を連れての参加となり、テーマもさることながら、メンバー、人数としても過去最大規模の開催となり、大いに盛り上がった。

今回の料理としては、昨日は久しぶりに日差しの強く暑い一日となったことから、身体を冷やす効果のある夏野菜のきゅうりとトマトを多めにつかったヨーロピアン風サラダ、それから、夏らしい料理ということで、生姜とニンニクとレモンをつかったジェイミーオリバー風ソースをかけたサーロインステーキのグリル。

しかし、今回のメインは、ヨーロッパで相当お世話になった国際金融マンK氏のモスクワからの帰国に相応しい、ロシアにゆかりのある料理ということで、キエフ風チキンを初挑戦でつくってみた。

キエフ(ウクライナの首都)風チキンとは、文字通り旧ソ連のウクライナではおなじみの料理であるが、鳥の胸肉にハーブバターを詰めて、ころもをつけて油で揚げたカツレツのことである。実は、この料理、必ずしもキエフがオリジンではない。これはフランス人シェフによるアイディアで、しかもニューヨークで生まれた料理だ(モスクワでは、これはモスクワが発祥だという説もあることを補足しておく)。19世紀後半から20世紀前半のニューヨークでロシア人相手の商売をするために、あえて「キエフ風」と名付けたもの、らしい。とはいえ、今ではキエフではどこでも食べられる定番料理のひとつと言っていいだろう。

今回は、このキエフ風チキンを少々アレンジし、オリジナルのレシピからは少し離れた。まず揚げる際に、オーストリアはウィーンのシュニッツェル(子牛のカツレツ)のように、バターを多めに使って香りとコク味を出そうとした。あとは、中身をハーブバターの代わりに、チーズとベーコン、それに東京では一般的なバジル系のハーブである大葉をつかってみた。チーズを挟むのは、フランス料理でも、Le Cordon Bleuのスタイルが有名であるが、コルドンブルーはころもをつけて揚げないので、今回のは明らかにコルドンブルーではない。いずれにしても、揚げ方も中身も違うので、キエフ風、と呼べるどうかははなはだ怪しいが、一応正式名としては、大げさに"Viennese Style Chicken "Kiev" a la Salon de Rio"(ウィーンスタイルで揚げたサロンdeリオ風のチキンキエフ)としてみた(笑)。ま、味の方はまずまずで、ゲストの皆さんにも喜んで頂けたのは何より。仕込みに手間のかかる料理ではあるが、サロンdeリオ定番メニューになりそうな予感(笑)。

これに金融キャリアウーマンでフードコーディネーターのT女史が持ち寄ってくれた具沢山でハーブを効かせた洋風トマト煮込み料理が加わり、とにかく酒がよく進んだ。飲める人が集まっていたせいもあり、夜中間際に、最後スパゲッティボンゴレで締めた時点で、ワインボトル4本、ビールの缶多数がきれいに空いていた。

ビデオ上映会の方は、今回は参加できなかったが、ディレクターのT氏の最高傑作を皆で2度鑑賞。メイキングの写真集とも照合しながら、シーンの分析を行って、再び感動がよみがえった。

昔からの仲間との久しぶりの再会を祝って、日曜日の夜にも関わらず、宴は遅くまで続いた。


2009年5月23日土曜日

ふつうのごはん

ふつうのごはんが一番うまい。ふつうというのもあいまいだが、家で食べる何でもないメニューのごはんのことだ(全然クリアになってないか(笑))。例えば、白いごはんにお味噌汁に、あとは何でもよいが、今日は一日天日干しした静岡のサバをグリルで焼いた。実は、これに生卵とからし高菜があったので、今日はかなり豪華だった(笑)。

このような何でもないメニューだけれども、それでもきちんと拘って作れば本当に美味しくなる(どうでもよくつくると、どうでもよいごはんになってしまう)。それに、こういうのをこだわってきちんとできたごはんは、レストランで食べるよりも得てしてうまいものだ。

こだわりのポイントは、一にも二にも、まずは食材。白いごはんもやっぱり米には拘らないとだめだ。こないだまで魚沼産コシヒカリを食べていたが、ちょっと前に(やっぱりちょっと高かったので)どうでもいい米にしたら、味に歴然と差が出てしまった。今日はちゃんと鍋炊きしても、やっぱり全然かなわない。お味噌汁もそう。入れる具は新鮮なものがいい。特に野菜はそう。肉や魚は大きなものになると少しおいた方が味がよくなることもあるが、野菜ではそれはない。取れ立てもぎたてが一番旨いということになっている。それと味噌も添加物なしのいいものを使うと全然風味が違ってくる。それとやっぱり差が出るのは出汁だろうと思う。私なんていつまでも横着して顆粒の出汁をつかってるが、これとて、ちゃんと上等のかつお節を買ってきて、家で鉋で削って、さっと出汁をとったら、もっと旨いにちがいない。

魚は言うまでもなくいいものを選ばなければいけない。魚に関していうと、(野菜よりは見分けは簡単なのかも知れないが)、いいモノを見分けられること自体が、ものすごい人間力の一部だと自分は思っている。残念ながら、私はぱっと見て、新鮮な魚かどうか、いまだに見分けがつかない。

先日も、マコガレイを買って来たところ、これが全然古くて唖然とした。中華風に味を濃くしてやってみたけど、どうにもならんかった。

それに比べて、というか比べてはいけないんだけども、福井のおじいちゃんは見た瞬間に見分けがつく。それも新鮮か古いか、そういうレベルではないようだ。こないだも、海岸近くの店の軒先でサバの切り身を炭火焼きしてたのが、偉い旨そうに見えたので、「あれは、旨そうだね」といったところ、「あれは、冷凍ものや。しかも半年以上経っとる」と。「何が違うの?」「見たとこが違うんや。30年も魚みとれば、分かるようになる」。エラが赤いだの、目が透き通っているだの、そういうレベルでは全くない。まあ、そこまでの域にはまず到達できないのだけれども、足しげくいい魚屋に通っては、買って食べてみる、それを繰り返しながら、結局は、体験で覚えるしかないのだ。

さて、そんなんで、ふだんの何でもないメニューでもこだわりを持って、ちゃんとつくるとレストラン以上の食事になる。というか、レストランの食事というのは、よっぽどいいところにでも行かない限り、旨いものにはあまりありつけないのが常でしょう。子供だましの旨い料理はどこにでもあるけれども、本当に旨いものは、そうそうあるものではありません。

まあ、そんな背景というか、日頃の思いもあって、先日とある人とどんな食事が好きか、という話になった時にうかつにも、「やっぱり卵かけご飯が好きだなあ」と言ってしまった。私をよく知っている人ならよかったかも知れないけど、言ってしまった後で後悔しても既に遅しで、訝し気な顔をして、一瞬の沈黙が走った。やもめ暮らしでろくなもん食べてないに違いない、そう思われたのはおそらく間違いのないことだった(笑)。

2009年5月16日土曜日

越前の詩

GWに福井に行く事にしたのは、4月の半ばぐらいだったと思う。その頃、とあるプロジェクトの関係で土日を返上してロサンゼルスに出張。16時間の時差の中、某米国企業のCEOをはじめとする3人の経営陣と2時間面談して、再び日本に帰って来たころには、大分疲労が溜まっていた。しかし、それは面談やその後の食事で疲れたのではなく(これは大いに楽しんだ)、往復のエコノミークラスのフライトがキツかったからである。

「芦原温泉に3泊もすれば、身体の痛みなど、すぐとれるはずだ」。

そう思って、GW中のチケットを予約したのであったが、しかし、それまで待てず福井へ行く前日に関東の温泉に一足早くつかりに行ってしまったのであった(笑)。

福井県は日本の都道府県の中で最も目立たない県のひとつかも知れない。旅行ガイドブックでも、北陸といえば、加賀百万石前田家ゆかりの金沢は必ず取り上げられるが、福井はぜいぜいその他扱いだろう。しかし、福井の観光地としての(不)人気は私にとっては、例えて言えば、昨日のエジプトの天気のようなもので、はっきり言ってどうでもいい事である。緑の美しい山があって、水のきれいな川がある。歴史があって、文化がある。そして食べ物が美味しい。これだけでも訪れるに十分な理由と言えるだろう。しかし、もう一つ私が福井を訪問する理由を挙げるとすれば、それは福井が、いや、三国こそが、私の祖先のゆかりの土地だからである。もう少し平たく言えば、親戚が多く居るということである(笑)。

今回は3泊したうち、初日はおじいちゃん宅でゆっくりお話。2日目はおじいちゃんとおばあちゃんを連れて、日本六古窯の「越前焼」の陶芸の里を訪ねた。3日目は、今度はおじいちゃんだけ連れて、越前和紙の里を訪問。4日目は従兄弟と一緒にゴルフの競技会に参加させてもらった。とにかく充実した旅となった。

この時期の福井は新緑に笑う山々がとても美しい。越前和紙の里の古い街並はとても趣があり、1300年の歴史を誇る大滝神社(トップの写真)は本殿が物凄い迫力のある素晴らしい建築そのものであるが、それが緑の山の手前にぽつんと佇む様子が何とも素晴らしく、その本殿に行くまでの樹齢の高い木々といい、とにかく素晴らしいに尽きる。

この地が1500年もの間紙漉の里となっていた理由は、ここに(偶々)紙漉の技術が伝えられたこともあろうが、何よりここの水が特別にきれいだからである。即ち、自然の恵みである。この集落は、こうして1000年もの間、自然の恵みの水によって、紙漉を行い、技術を高め、そして繁栄してきたのである。その紙の神こそが、この大滝神社とこの近くにある岡本神社に祀られているのだ。

ここは今観光地としての開発が少し進んでいるが、正直観光地化している部分はあまり面白くないと思った。それよりも、古い街並がそのまま残っていた方が私にとっては魅力的である。

この日、おじいちゃんは昔からの知り合いの方をこの街に訪ねた。住所も知らない。知っているのは名前と、何年も前に来たことがある、その記憶だけだ。しかし小さな集落であるし、その人は紙の世界では有名な方、なのだとか。通りを歩きながら行き交う老人の方に道順を聞いて、漸くその家にたどりついた。嬉しそうに突然の訪問客を迎えるその方も御年88歳になられる。しかし至ってお元気そうである。軒先でお茶を頂きながら昔話に花を咲かせていたところ、この方が、「これに俳句を書いてくれませんか?」と短冊と筆を用意して持って来た。おじいちゃんがささっと迷わず筆を走らせると、短冊には、この土地に相応しい、詩が現れた。

「雪解川 命の紙の 詩流る」

この旅の間、おじいちゃんからは仕事や料理や魚の目利きや歴史の話など、とにかく色んな話を聞き、大いに勉強をさせて頂いた。その内容は、しかし遭えてここで書くものではない。

遭えて書き足すとすれば、従兄弟の家で頂いた最高のごちそうのことである。今回思ったこと、それは、日本海と言えば、魚。魚と言えば、何はさておき、やっぱり河豚だなあ、ということ。河豚の旨さは何物にもかえることができない。魚の大様。King of Fish。私の知る限り河豚が食べられるのは日本だけ(中国では食べるかも知れない)。ヨーロッパでは話題にしても、食べることはない。日本で必ず食べなければならないもの、それが河豚だなあ、と思う。それから鮟鱇。鮟鱇は英語でMonk Fishと言って、ヨーロッパでも高級魚として扱われており、私もスペインなどでよく食べたし、家でも料理をしたことがある(但し、ヨーロッパにおいては、鮟鱇漁が底引き網を使うことから環境への配慮であまり食べてはいけない魚、と見る向きもある)。しかし、今回食べた鮟鱇は今までにどれと比較しても、いや比較すらできない程に美味であった(幸)。とくに肝(あんきも)。これはもう、えも言われぬ食感と美味しさである。鮟鱇の肝というと、東京は江戸の老舗の鮟鱇鍋屋でも頂いたことがあるが、全く同じ物とは思えない逸品であった。というか、本当に違うものだったと思う。お店で食べたあんきもは蒸してあった筈だ。今回のは生。それを鍋でささっと火を通して、アツアツで頂いたのだから、もうこれは別物。ヨーロッパではフォアグラは食べてもあんきもは食べない。しかしあんきもはフォアグラより上、と個人的には思う。私もいつか鮟鱇の吊るし切りを覚えたいものです。

2009年5月10日日曜日

国際文化会館で親友二人の結婚式

素晴らしい天気の中、国際文化会館という庭園の美しく、また建物のデザインも秀逸な、素晴らしい環境のもと、学生時代からお世話になっている二人がめでたく結婚式を挙げた。

人前式を庭園で執り行った後、屋内に入って披露宴。学生時代の友人が集まり同窓会的な雰囲気もあったが、新郎の暖かい人柄、新婦の国際的で洗練された趣味や友人(ドイツやアメリカからも友人が参じた)が醸し出す雰囲気は、上品ながらも暖かいもの。

デザートは再び庭園に出て頂くという段取りで、日の落ちた暗い庭園がライトアップされて、心地よい気候の中で、とてもよい雰囲気を皆で味
わった。披露宴では、大学の共通の友人が制作したビデオが大好評の中上演され、新郎新婦はじめ会場が騒然。毎晩3時まで頑張ってつくった傑作が日の目を見、大きな拍手とともに、友人の労も報われた。

とにかく素晴らしい天気、素晴らしい会場、素晴らしい人達、素晴らしい結婚式であった。

I君、Sさん、おめでとう!

第2回サロンdeリオ: "The World is Not Enough?"

4月26日に第2回サロンdeリオを開催。

今回はテーマをどうしようかなあと思っていたところ、007の映画を偶々見ていて、これだと思った。The World is Not Enough(?)。というのも今回のゲストは皆世界のあちこちに住んだことがある人ばかり。以前、ベルリンでお世話になっていた国際的な友人K氏夫妻に、学生時代からの留学仲間二人(H君とF君)。更に、私の留学先の大学在学中、ロシアはサンクトペテルブルグにも留学していたキャリアウーマンのMさんに、美大を出てニューヨークに渡ったインテリアデザイナーの女性Yさんだったからである。テーマを上記のようにしつつ、世界中の料理をこしらえよう、そういう意図であった。

それでつくった(用意した)のは、以下の品。

1.真鯛のセビーチェ(南米ペルー料理)
2.トマトとモツァレラと生ハムのグリーンサラダ(イタリア風)
3.ゴーダチーズ(オランダ)
4.蕎麦の実(ロシア、コーカサス)
5.チキンのもも肉とオリーブのトマト煮(アフリカモロッコ風)
6.アイスクリーム(ニュージーランド)
7.ジャスミン茶(中国)

幸いゲストの皆様も上記料理を喜んでくれて、お酒もすすんで、会話がはずんだ。参議院議員秘書をつとめて、つい先日の国会用に議員の質問をほぼ徹夜でドラフトしていた友人が地方政治について熱く語り、ベルリン帰りの友人は農業の夢を語ったところ、Mさんに教えてもらった都内の畑を後日早速借りて、すでに種まきをした様子。F君は静岡県のマラソンを走った直後にかけつけてくれて疲れた様子もなく超人のよう。Mさんは和食器、とくに九谷焼がお好きのようで、自分の焼き物の本を見入っていた。

サロンdeリオは、とにかく美味しいものを食べて、お酒をのみ、人生の楽しみについて話す会。今後もときどき開催したい。ちなみに、第一回は4月4日で、テーマは瀬戸内祭り。尾道で買ってきたでべらをはじめ、最後はたこ飯でしめるなど、瀬戸内の味を皆で堪能。そのときのメンバーはH君ほか、ダンス仲間の女性陣で、食事が終わると狭い部屋にもかかわらず、チャチャチャを踊りだす場面にも遭遇した。

2009年4月13日月曜日

旬の魚 - メバル

今週はとても天気のいい週末となった。

今日は午前中から昼にかけて友人の結婚式の打ち合わせで新宿に。ウェディング写真の打ち合わせで、自分の知っているカメラマンを紹介することになっていた。二人とも学生時代からの親友同士で、とても感慨深いものがある。どんな結婚式になるのか今から楽しみだ。

打ち合わせが終わると、そのまま近くでロシア語のレッスンを受けた。最近少しさぼっていたので、かなり忘れてしまっていたが、今日は新しい先生がついてくれて、この先生の教え方が非常によく、また一段とやる気が出てきた。

さて、ロシア語のレッスンが終わって、お腹がすいていたので近くのスーパーに買い物に。見ると、春から初夏にかけてが旬の魚、メバルが並んでいた。新潟でとれたもので、見るからに新鮮。メバルはカサゴに似た魚であるが、違いは何と言っても目が大きいこと。名前の「メバル」は漢字で書くと「目張」であって、まさに目が張っているところからきている。メバルには、黒メバルと赤メバルがあるが、色は違っても同じ魚。生息水域が深くなると、色が赤くなる(この特徴はカサゴも一緒だ)。今日のメバルは赤みがつよいので、深い水域で捕れたものだろう。深いということは水温が低いということであって、その分身がしまっている、ということだ。メバルは塩焼きにしてもいいが、代表的なのは煮付け。大きさが20cm程度の魚なので、おろさずに姿煮にすると皿が立派に見える。

早速、エラとワタをとって、煮付けをつくってみた。このように姿煮にするときには、最後皿に盛るときに頭を左に向けるものなので、ワタをとるには身の右側に包丁を入れて抜くのが定跡。これを隠し包丁と言う。そうすると、皿に盛ったときに跡が見えない。

今日は冷蔵庫にエノキとエリンギが残っていたので、これらを一緒にいれてみた。味付けは全く目分量であったが、酒、醤油、みりん、水。若干薄味だったが、身がしっかりしていて、とても美味であった。

2009年4月5日日曜日

尾道の展望台にて

「あら、戻ってらしたの?これから英語のレッスンがあって、先生がくるんだけど、よかったら一緒にいかが?」「先生は、若い女の子よ」

倉敷を出て次に向かったのは尾道だった。JR山陽本線のプラットホームに立って暫くすると、「いい日旅立ち」の曲に乗って、電車がホームに入ってくる。乗り込むと、瀬戸内の豊かな陽が差し込む車内は、ぽかぽかで椅子に座るやいなや、すぐに眠くなってきた。前の列には地元の高校生らしき3人乗っていて、大きな声で話をしている。

「聞いてよ、私の姉ちゃんさあ、今台湾人と付き合ってるんだよ。やばくない?アメリカに居るんだけど、台湾人が彼氏なんだって。陳さん、らしんだけど。それってさあ、もし結婚したら、姉ちゃんの名前、「陳さとみ」ってこと? 絶対いややわ、それ」。

岡山駅から倉敷に向かったときは、隣のブースにアメリカ人が二人乗っていて、やはり大きな声で話をしていたことを思い出した。この車両に居るのは、殆ど皆地元の人に見える。アメリカ人はおろか、大阪人すら居そうにない。いよいよ旅情が湧いてくる感じだった。

尾道に行くのは、はじめて。ガイドブックは読んだが、街のイメージは何もない。ただ、のどかな瀬戸内の雰囲気を感じられることを期待していた。

尾道は、瀬戸内海の尾道水道に沿って、東西に細長い街だ。その真ん中をアーケードの商店街がつーっと通っている。そのすぐ北に平行して道路が一本と線路が走っていて、その北がもう小高い丘。ここに神社仏閣も多く並んでいて、昔ながらの民家も軒を連ねている。「坂の尾道」、はこの部分から来ている。

その尾道の坂道を登り歩き、千光寺に行ってみた。眼下に見下ろす尾道水道の眺めはなかなか。しかし、この日はとにかく寒かった。これはたまらんと、せっせと坂を降り始め、尾道ラーメンを食べて、さっさと向島の宿に戻ることを決めたのだった。

この宿は以前から知っていたところではなく、インターネットで検索してヒットしたB&B。ここにした理由は場所が「向島」という一応「島」にあったからで、尾道を全く知らない自分が勝手に東京の自宅で想像したのは、瀬戸内ののどかな漁師の島みたいなものだった。

ところが、着いてみると向島の印象は全く違っていて、目の前に船舶の修理工場があって、工業的だし、環境も正直いいとは思えない。早くも後悔しそうになりながら何でもない住宅街を荷物を持って歩いていくと、漸くこのB&Bが現れたのは、古い床屋さんを右に曲がって行ったところだった。

「あれ?この家だけ、雰囲気が違う」。

まず家が大きい。確かにB&Bをするぐらいだから、大きくないと話にならないので、考えてみれば驚くには値しない筈なのだけれど、それにしても、こんな街並の中で、こんな大きい家。

「何をやってる家なんだろう」。

出迎えてくれたのはおばあちゃんで、おかみさんはその日は東京に行っていて、夜戻るのだとか。いろいろ話を聞いてみると、お孫さんが3人いらして、大学等で外に出るようになって部屋が空いたので、B&Bにしているらしいことが分かった。

「今日は丁度東京の大学に行っている孫の卒業式なんですよ」。

「お孫さんは、東京でどちらの大学に行かれていたんですか?」

「東京大学です」。

(一見何でもない田舎にぽつんとある大きな屋敷。しかもお孫さんが東京大学となると、この辺の名士の家に違いない...)。

のっけからそんな風にこの家に対して関心の度合いが高かったので、ちょっと寒くなるや、尾道観光はそっちのけで、この家の人といろいろ話をしてた方が面白ろかろう、そう思ったのである。

宿に帰ってみると、そこのおかみさんがちょうど英語のレッスンを受けるところだったのだ。

「じゃ、ぜひ」。

全く躊躇いもなくこう答えたのに、おかみさんも一瞬驚いたようであったが、おかみさんより先にさっさと下に降りて行ってしまった。

「こんにちは」。

自分はてっきり外国人かと思っていたら、日本人の女性だったので、こっちも一瞬驚いた。しかも若い。聞いてみると、この先生は、もともと生まれは向島だが、お父さんの仕事の関係でハワイで育ち、その後パリの大学に行って、先日卒業したばかりとか。英語は殆どネイティブで、発音は完全なアメリカ式だった。

この日のレッスンのテーマはこの先生が大学で国際政治を学んでいたこともあり、英語の初級者向けのテキストには全くもって不向きであったが、ソマリアへの自衛隊派遣の記事を読む、というものだった。この記事を先生と自分で音読して、その後おかみさんにも読んでもらい、一緒に発音を勉強したり、意味を追って行ったりしたあと、ソマリアの海賊問題の背景や、アデン湾の地政学的重要性などについて話をしたりした。まさか尾道まできて英語のレッスンに立ち会えるとは思ってもおらず、思いがけず、楽しい一時となった。

それにしてもだ。そもそもこの先生は本来は英語の先生でも何でもない。ハワイで育ってパリの大学を出た、いわば「洋行」戻りの人なのである。そういう人を地元で見つけてきて、週に一度家によんでお茶をしながら、英語の勉強という名目のもとにいろいろお話をして見聞を広げる。これは言ってみれば、「サロン」を開催しているようなものである。その姿勢たるや、江戸の大名かパリの貴族さながらである。こういうことをしようとするアイディアや好奇心というのは、自然と身に付くものではない。これこれそがこの家の「育ち」だろうと思った。このおかみさんの息子さんが東京大学に出られるのも頷ける。

さて、このレッスンが終わると、おかみさんは先生を家まで送りに出て行ったが、自分はひとりリビングでストーブにあたっていると、今度はこの宿のおばあちゃんが出てきて、家のアルバムをもってきて見せてくれた。どれもいい写真だ。聞くと、既に亡くなられたが、このおばあちゃんの旦那さんが、文化的な人で、映画造りなどもやっていたが、写真家としても活動していたのだという。まだまだ海外旅行などが一般的でない時代に、船でヨーロッパにわたって映した貴重な数多くの写真や、広島の原爆の後を追った写真など、何冊ものアルバムが出てくる。
「これは、あの人が、〜にいったときに撮ったものです〜」。

といった調子で、一枚一枚解説付きだ。写真もさることながら、私はこのおばあちゃんが一枚一枚を解説できるというのは一体どういうことだろうか、と思った。写真家というのは写真を撮りに行くときは、独りで撮りに行くものだ。このおばあちゃんは決してその場に居た筈がない。ということは、写真ができた後に何度も何度も話を聞いていた、ということだろうか。それにしても、これだけ多くの写真である。私はこのおばあちゃんがアルバムのページをめくる度に、昔あったであろう、おじいちゃんとおばあちゃんの会話の様子を想像しながら、解説を聞き入ったのであった。

「あら、おばあちゃん、まだやってるの〜。すみませんね〜」。

おかみさんが帰って来た。

「いいんですよ。私も写真を見るのが好きですし、こんな貴重な写真なんですから。観光よりもこっちの方が全然面白いです」。

「あら、そうなの。じゃあ、こんな写真もあるわよ」。

といって持って来てくれたのは、昔からの家族の写真であった。写真家のおじいちゃんの前の大おじいちゃんの写真もある。しかも、何と日露戦争前後の時代に、アメリカに渡っているのである。

(尾道の豪商の末裔なんだ...)。

翌日の朝、朝食を頂くと、ぼちぼちチェックアウトの時間が近づいていた。鞆の浦によって帰る計画で、宿の人にも行き方を聞いていたのだ。荷物をまとめて、お支払いをすませて、ブーツに足を通す。

「向島、反対側もちゃんと一周して見られました?」

「今回は残念ながらその時間はなかったですね」

「では、今からドライブしませんか?島を見せてあげますよ」。

おかみさんからの思いがけない提案だ。

「あんた、何を、お客様はこれから鞆の浦にお出かけになる、言うてるときに」。

おばあちゃんがおかみさんを見る。

(鞆の浦はまたこの次だ)。

そう決めると、おかみさんのローバーに乗って、海岸沿いに出た。昨日の寒さとは打って変わって、天気がいい。島の反対側に来てみると、こっちは尾道水道側とはうってかわって、自然が美しく、工業的なものは何もない。ヨーロッパ人が大喜びしそうな、リゾート地である。

「私の好きな展望台にお連れしましょう」。

そういうとローバーは坂を駆け上がって、みるみる小高い山を登って行く。

「どうです?きれいでしょう?」

ついたところは向島でも有名な、しかしそれほどよく知られている訳でもない穴場的なスポット。展望台があって、向島の周囲が一望できる。そして、しまなみ街道が遠くに見渡せて、天気がいいと、四国の影が見えるところだ。

「いや、本当に素晴らしい環境ですね」。

それにしても何だろう。これだけの環境資源に恵まれたこの島なのに、全体的に寂れている。海岸もとても美しいのに人の気配が殆どなく、見たのは老人ホームだけだ。どうしたら、ここにもっと人が集まるのだろう、いや、集まらなくてもいい、でももっと豊かにこの土地をエンジョイしてもいいのではないだろうか。ヨットやウインドサーフィンなどのマリンスポーツ。スキューバダイビング。釣り、そしてビーチでのバーベキュー。ビーチに面した通り沿いにテラスを出してのんびりビールでも飲む。あるいは単に犬を連れて来て散歩していてもいい。少なくとも、これがヨーロッパであれば、こういった環境の周りに人が集まり、気に入った家をたて、のんびりと暮らし、あるいは休暇を楽しむだろう。環境のよさ、特に自然環境のよさは、お金で買えるものではない。だからこそ貴重なのであって、そこに人が集まってくるのだ。

「尾道は、これからどうしたらいいですかね?」

そんなことを考えていたら、ふとこんな会話になった。

「ここに住んでる人がまずは豊かに楽しく暮らす。それがいいのではないでょうか」。

そう言いながら、しかし、地方の行政について改めて考え直してみなければならない、そう思った。大きな規模の経済活動の中において、個人がばらばらに何かやっても焼け石に水だ。

そう思いながら、改めてもう一度この展望台からの景色を眺めてみた。

2009年3月27日金曜日

倉敷の酒場で。


その小さな飲み屋の名前は既に忘れてしまった。

倉敷の駅前の一番街というところだったと思う。小さなアーケード通りの店だった。店の外に「カレイの煮付け」とあったので、地元瀬戸内の魚かと思い、それに惹かれた。カラカラとスライドをあけて、店の中を覗いた。ちょうどコの字型にカウンターがあり、その奥に女性二人が立っている。

「1人ですけど、大丈夫ですか?」

「いらっしゃーい。どうぞー」。

語りかけるような、元気な明るい声。東京のとはやはり違う。さっと狭い店の中を見回すと、5〜6人が既に飲んでいたが、真ん中の席が2つ空いている。左には、夫婦らしき2人が。右隣にはサラリーマン風の3人が座っていた。3人のうち、すぐ右隣の人がタバコをふかしていて、その煙が椅子にかけるやいなや、すぐ目に入ってしみた。タバコの煙は好きではない。「ああ、しまった」と一瞬思った。ふとみると、タバコの箱がおいてあったが、どこのタバコか見当がつかない。

コの字型のカウンターには、大皿が4つ5つ並んでいて、そこに料理が盛ってある。どうやら、この中から選ぶシステムのようだ。多分そこから1人分をとって、暖め直してから出すのだろう。確かに、見てみると、カレイの煮付けのような皿もある。しかし、どれもこれも、見るからに、家庭料理。この2人でつくったんだろうなあ、と思わせる皿だ。求めていたものはこれだ、という思いと同時に、何とも言えない不安と後悔に一瞬襲われた。どうみてもすごい旨いものには見えなかったからだ。

「お飲物、何にしますー?はい、これおしぼりです」。

娘さんの方がおしぼりを出してくれた。母親と思しき方は少し奥に入っている。娘さんの方は一体いくつぐらいなんだろうか。最近東京ではあまり見ない真っ黒な黒髪で、どうだろう、30歳近くぐらいだろうか。やっぱりとても苦労している感じだ(あとで25歳だと分かった)。

こんなことを考えていた間に、ちょうどその日の午後美観地区を歩いていたときに酒蔵らしきものを見かけた記憶が思い出された。森田酒蔵だっただろうか。

「えー、ビール。あ。やめた。そうじゃなくて、ここの地酒がいいですね。地酒をお願いします」。

その地酒はガラスの徳利みたいなボトルで出てきた。おちょこもガラス。青い模様が少し入っている。

「えーと。じゃあ、カレイの煮付けと、このタコの和え物みたいなの、ください」。

今回の休暇で倉敷に来たのには特別の理由があった訳ではない。どちらかと言えば、大学時代からの知り合いでヨーロッパでも一緒だった友人を訪ねにいく、という明確な目的のあったのは、むしろニューヨークに行く方だった。しかし今回どうも気が乗らず、旅の準備もせぬままダラダラと休暇の直前まできてしまった。しかしずっと東京に居るのも、ということで、思い立って来たのが、この瀬戸内だった。しかし倉敷はこれまで何度か行こうとして結局行けずにいたところではある。昨年秋に徳島県の祖谷を旅行した時にも、前日岡山から備前焼の里、伊部に行った帰りに倉敷へ、と思いながらも時間切れで行けなかったし、その後、年末に仕事で水島に行ったときにも、あともう少し足を伸ばせば倉敷、と思いながら、結局素通りしていた。だから「今度こそ」という思いが少しはあった。

昨年まで4年間ヨーロッパはオランダのアムステルダムに住んでおり、オランダの田舎の美しさに魅了された。もっとも、東京に比べればアムステルダムも大いなる田舎。東京に戻る、と考えただけで、早くもストレスを感じるぐらい、アムステルダムは穏やかで、人間的な規模の街だった。「日本に帰ったら、田舎のいい街を探してみよう」。そういう思いがとても強くなっていた。

その中で今回倉敷を選んだのは、昔ながらのきれいで趣のある街並を見たかったからだ。それと、江戸時代、徳川幕府の御領として年貢米の集積地となったことで栄え、豪商を生み出したこの街の歴史と現在をこの目で見、そして考えてみたかった、というのもある。倉敷と言えば、大原美術館で名が残る大原財閥の出所。大原財閥によって、倉敷紡績、クラレ、中国電力、中国銀行、など蒼々たる企業が次々と興されたのであり、大原財閥は当時「倉敷一」のレベルを遥かに超えていた。

時は幕末から明治維新にかけての混乱期。江戸の経済が、米、醤油、酒造、そして呉服、などの一次産業を中心に潤っていたのに対して、この頃一気に台頭したのが、紡績業。まさに商業から工業へ。当時、日本経済全体のうち紡績産業の占める割合は何と7割にも達していたという。これはものすごい割合である。一つの産業がここまでのウエイトを占める例は、後にも先にも、この紡績以外にはない。現代にも残る多くの企業はこの時代に、紡績産業を中心にして、生まれたケースも多い。世界のトヨタも、その起源は豊田紡織であるし、泣く子も黙る日本の総合商社も、ニチメン(日本綿花)、トーメン(東洋綿花)など「綿」を紡績工場におさめる商売が流行った。尚、トーメンとは三井物産の綿花部が独立した会社である。

しかし、紡績業の台頭というのは18世紀以降の世界的現象である訳で、考えてみれば、フランスとの七年戦争に勝利して、国際政治においてヘゲモニー(覇権国)の地位を確立したイギリスが、リバプールの奴隷貿易によって集積された気の遠くなるほどの莫大な資本の上に、マンチェスターで花開かせたあの産業革命、あれもやはり紡績業が中心だった。そう考えると、日本における紡績業の台頭自体は不思議なことではない。しかしいずれにせよ、倉敷の大原財閥というのは、そのような時代にあって、現代にも残る大企業をいくつも創立させたとてつもない大富豪であったということは間違いない。

倉敷の街はJRの駅から南に中央通りを歩いて行くと、10分もしないうちに、美観地区の入り口に到着する。交差点を左に入ると、一瞬映画のセットかと思わせる雰囲気。少しいくと倉敷川が現れ、この両側に大原家住宅と大原美術館がそびえ立つ様は圧巻である。しかしヨーロッパの歴史ある街で受けるような圧倒される感じや怖れを抱くようなものはない。きれいでもの静かな街並といった印象だ。

倉敷の美観地区はこの倉敷側に沿ったエリアと、川に平行してもう一本有名な通りがあり、これが本町通りで、歴史的にはこちらの方が古い。倉敷川沿いに屋敷を構えていたのは、当時の「新興勢力」であったようだ。この隣接する二つのエリアが互いにしのぎを削った過去が思い偲ばれる。もちろん勝利したのは大原財閥の新興勢力の方だった筈だ。

この倉敷の美観地区、これが実は非常に狭い。すぐに全ての通りを歩けてしまう。軒を並べる白壁の美しいお屋敷を見るのは楽しいし、また表札などからして、現在でも誰かが住んでいることを思うと羨ましい気持ちにもなる。しかし全体として受ける印象としては、この美観地区は見事なまでに、圧倒的に「観光地」なのであり、人々の延び延びとした豊な暮らしがそこにある、というものではない。この辺はオランダと大きな違いがある。オランダでは、アムステルダムでも、ユトレヒトでも、ライデンでも、そこに大勢の観光客が集まる場所にあっても、まず現地の人々の豊かな暮らしがある。天気がよければ、運河で優雅にボートに乗って、古い教会を眺めながら、ビールを飲んでいる。17世紀に遡る由緒ある計量所の立派な建物は、オランダではどこにいっても、今はカフェだ。その場所を人々が日常的にゆったりと使い、エンジョイしている。そういう風に、何気ない日常生活の一部に、美しいものが贅沢なほどあふれている、そのことは疑いなく、質の高い、豊かさだと思う。そして、そういう地元の人が楽しんでいるのを見て、観光客も「ここに住めたらいいだろうなあ」と思うものだ。彼らオランダ人にとっては、まさに、そのような楽しみを実践できることがそこに住む大きな理由であり、もし過去の歴史をショーケースに入れたまま、大事に外から眺めるだけのような街なら皆出て行ってしまうだろう。

それに比べて倉敷の街はどうだったか、というと、日本の他の街に比べて、特別に倉敷の人が豊な暮らしをしている、という印象は今回は残念ながら感じることができなかった。もちろんあのようなきれいな美観地区がある、というのだけでも素晴らしい。しかし美観地区は狭い。そして美観地区の外にでれば、もはや倉敷にいるのか埼玉にいるのか分からない。大多数の人は、そのようなエリアを中心に生活している筈だ。

「地方の暮らしは東京よりも豊かな筈だ」。

こう思っているのは私だけではないだろうが、特に自分にはこの幻想が強かったのかも知れない。倉敷にくるにあたって、過大な期待を寄せていた可能性もある。それはアムステルダムが、パリやロンドンに比べると地方色があり、田舎街だったからだろう。しかし素晴らしいアムステルダムの街が田舎街であるからといって、全ての田舎街が素晴らしい訳ではない。しかし日本の田舎には、アムステルダムに匹敵する豊かな街はあるのだろうか。。。。

「お二人はどちらからいらしているんですか?」

おちょこを置いて、左隣の夫婦に聞いてみる。

「三原です」。

「三原ですか。じゃあ、わりと近いですね」。

「この人がここで仕事してるんですよ」。

「三原はいいとこですか?」

女性は無言で顔を歪めて横に振った。

「はーい、これから歌を歌いますよー、この娘が」。

少し奥にいた母親が前に出て来て語りかける。カラオケでもあるのかあ、とお客。ないわよー。アカペラかー?よおーし、と場がにわかに盛り上がる。さっきまでタバコをふかしていた右隣の「加山さん」が声をあげて場を盛り上げる。「加山さん」というのは、ニックネームで、三原の男性が「加山雄三にちょっと似てるんじゃない〜」といったから、この晩は加山さんで通っていた。一方、三原の人は、「二宮さん」。これは、スポーツジャーナリストの「二宮清純」に似ている、と自分がいったのが、おおいにウケて、「おう、そうだ、そうだ。二宮さんだ!」と皆が喜んで呼ぶようになったためだ。ついでにいうと、加山さんの右隣の人は、「ムツゴロウさん」。言われた本人は不満そうだったが、またまた自分が調子に乗って言ってしまった。更には、そのサラリーマン風の3人を飛び越え、コの字型の一番先頭の奥に独りで飲んでいたおじさんの方を見て呼んでみた。「あれ?あそこにさんまさんが居ますよ。ねえ、さんまさん!」。その人がこちらを見て、照れながらにこりとすると、これがまたさんまによく似ている。皆、大爆笑。「ほんとだ、ほんとだ、こりゃ、面白い。さんまさんだ、さんまさんだ!」。皆、勢いがついてきた。すると、「じゃあ、これはどう、これは」。とムツゴロウさんが、右に座っているもう1人の部下らしき人を差す。「いいんですか、言っちゃって?」「いいよ、いいよ、言ってみてよ」。では、、、

「豊田章男!」。

「あ。いいなあ、いいじゃない。ずるいよ。豊田章男」。ムツゴロウさんがひがんでみせる。大企業のサラリーマンと思しきこの方々からして、どこの馬の骨かも分からぬモノから、突然、世界のトヨタの社長に似ていますよね!、と言われるのは本人も悪い気はしないようだ。しかし、それにしても本当によく似ている(笑)。「しかし、あなたも幅が広いねえ、二宮清順にさんまさんに豊田章男ときたかあ。インテリだねー」。

こうして、まだ日本酒のボトルが半分も空かないうちに、既に殆どの人の名前が決まっていた。そんなところに歌が入ったものだから、いよいよ活気づいてくる。三原の人が何か言うと、「お。さすがー、二宮さん、いい解説するねー、おい!」。「加山さんも一曲いったらいいんじゃない?えー。はははは」といった具合に、大いに盛り上がっきた。

「よし、あれいってくれ、あれ!」「誰よ?」「石川さゆり!」

加山さんが身を乗り出す。このお店の子の歌は最初「島唄」から始まったが、見事な歌いっぷりで、皆思わず聞き入ってしまう。歌が巧い、というのか、とても真っすぐな感じが歌を通して伝わってくる。

「はーい、ワンツースリーフォー♪」

母親がいつもの調子で指揮者のように手を小さく振りながら音頭を取る。これがことごとく歌のリズムにあってないのが少し気になっていた。

「隠しきれない、移り香が〜♬」。

とはじまると、皆「おおおおー!!」と手を叩いて、大喜び。殆どクライマックス。

「何がああっても、もういいの〜♪」(イエーイ!!!)

「あなたと、越えたい〜♪」

ここで加山さんがばっと立ち上がって、一緒に熱唱した。

「天城〜越〜え〜♬」

「わわああわー!!!!」

「いやー、最高。いいねー」。

僕はねえ、大企業の営業部長やってるんだ。今回は出張で倉敷に来てるんだけどね。いつもは、全世界でビジネスをやってるんだよ。自分にさっきそう語っていた、加山さんが、最高潮に達した。

「この子はねえ、あたしゃ、3歳の頃から、ヤマハ音楽学校に入れたんだからね。3歳だよー、本当に。よかったよー」。ママさんが得意そうに皆に向かって話す。少し口を大きくあけると、右の方の前歯がないのが、目立つ。

「この漬け物食べない?おばあちゃんの手作りだよ」。「じゃ、あたし頂くわ」と三原の人。

どうやら、女性3代でこの小さな店をやっていることが想像される。おばあちゃんの娘がこの前歯のないママさん。そしてこのママさんの娘さんが、真っ黒な髪のこの歌い手さん。本当に小さな店だ。25歳のこの子は毎晩、ここで、こうして歌を歌っているのだろうか。しかしそんな境遇を嘆いている様子はかけらもない。

「あ、次は、私の好きな歌を歌ってもいいですか?」

これまでリクエストばかり受けてきたこの娘が、今度は自分から曲を言ってきた。

「ヨイトマケの唄」。

「えー?いや、知ってますよ。美輪明宏さんの歌でしょ」

「ねえ、かあちゃん、早く早く。あれやってよ。ワンツーってさあ」。

さっきまでノリノリで娘を自慢していたママさんが、今度は表情変えて、なかなか手を振ろうとしない。ようやく、何度か娘に言われて、小さな声で、渋々いつものワンツースリーフォーをすると、すぐに引っ込んでしまった。

その唄は、こうやって始まった。

「今も聞こえるヨイトマケの唄 今も聞こえるあの子守唄〜」

「子供の頃に小学校でヨイトマケの子供きたない子供と いじめぬかれてはやされて くやし涙にくれながら 泣いて帰った道すがら 母ちゃんの働くとこを見た 母ちゃんの働くとこを見た〜」

「帰って行ったよ学校へ 勉強するよと云いながら 勉強するよと云いながら〜」

「どんなきれいな唄よりも どんなきれいな声よりも 僕を励ましなぐさめた 母ちゃんの唄こそ世界一 母ちゃんの唄こそ世界一〜」

となりの三原の女性を見ると、すでにハンカチで涙をふいている。ママさんはカウンターに腰をどっしりおろしてしまって、涙が止まらず、仕事どころではない。

「俺も、九州出身なんだけど、親に土方やってもらって、学校いかしてもらったんだよ」。加山さんの目にも涙が浮かんでいる。

さっきまであんなに盛り上がっていたのがきゅうに静かになった。そして一人、二人と帰り始めるお客さんたち。二宮さんも立ち上がると、加山さん、豊田さん、ムツゴロウさんも立ち上がった。そして、皆お互いに握手をして、店を後にした。自分も最後に一人残るさんまさんと握手をして、店を出た。

外に出てみると、改めて寒さがしみる。この季節なのに、ぐっと冷え込んでいた。ふと空を見上げると、夜空には星がたくさん。ホテルまでの道すがら、久しぶりに星座を探しながら、地酒でほろ酔い気分で、歩いて行った。

「しかし、一体なんてことだ」。

ちょっと前まで、オランダの運河のボートの事とか、豊かさの事とかを考えていたのが滑稽にすら思えてくる。あの二人は、毎晩ああして歌をうたって、生活してるんだ。こうして苦労しながらも頑張っている人達のことを決して忘れてはいけない。それにしても、あの母と娘の愛情に胸をうたれる。

ホテルに入る直前に、もう一度空を見上げてみた。オリオン座がかすかに滲んでいた。