2009年5月16日土曜日

越前の詩

GWに福井に行く事にしたのは、4月の半ばぐらいだったと思う。その頃、とあるプロジェクトの関係で土日を返上してロサンゼルスに出張。16時間の時差の中、某米国企業のCEOをはじめとする3人の経営陣と2時間面談して、再び日本に帰って来たころには、大分疲労が溜まっていた。しかし、それは面談やその後の食事で疲れたのではなく(これは大いに楽しんだ)、往復のエコノミークラスのフライトがキツかったからである。

「芦原温泉に3泊もすれば、身体の痛みなど、すぐとれるはずだ」。

そう思って、GW中のチケットを予約したのであったが、しかし、それまで待てず福井へ行く前日に関東の温泉に一足早くつかりに行ってしまったのであった(笑)。

福井県は日本の都道府県の中で最も目立たない県のひとつかも知れない。旅行ガイドブックでも、北陸といえば、加賀百万石前田家ゆかりの金沢は必ず取り上げられるが、福井はぜいぜいその他扱いだろう。しかし、福井の観光地としての(不)人気は私にとっては、例えて言えば、昨日のエジプトの天気のようなもので、はっきり言ってどうでもいい事である。緑の美しい山があって、水のきれいな川がある。歴史があって、文化がある。そして食べ物が美味しい。これだけでも訪れるに十分な理由と言えるだろう。しかし、もう一つ私が福井を訪問する理由を挙げるとすれば、それは福井が、いや、三国こそが、私の祖先のゆかりの土地だからである。もう少し平たく言えば、親戚が多く居るということである(笑)。

今回は3泊したうち、初日はおじいちゃん宅でゆっくりお話。2日目はおじいちゃんとおばあちゃんを連れて、日本六古窯の「越前焼」の陶芸の里を訪ねた。3日目は、今度はおじいちゃんだけ連れて、越前和紙の里を訪問。4日目は従兄弟と一緒にゴルフの競技会に参加させてもらった。とにかく充実した旅となった。

この時期の福井は新緑に笑う山々がとても美しい。越前和紙の里の古い街並はとても趣があり、1300年の歴史を誇る大滝神社(トップの写真)は本殿が物凄い迫力のある素晴らしい建築そのものであるが、それが緑の山の手前にぽつんと佇む様子が何とも素晴らしく、その本殿に行くまでの樹齢の高い木々といい、とにかく素晴らしいに尽きる。

この地が1500年もの間紙漉の里となっていた理由は、ここに(偶々)紙漉の技術が伝えられたこともあろうが、何よりここの水が特別にきれいだからである。即ち、自然の恵みである。この集落は、こうして1000年もの間、自然の恵みの水によって、紙漉を行い、技術を高め、そして繁栄してきたのである。その紙の神こそが、この大滝神社とこの近くにある岡本神社に祀られているのだ。

ここは今観光地としての開発が少し進んでいるが、正直観光地化している部分はあまり面白くないと思った。それよりも、古い街並がそのまま残っていた方が私にとっては魅力的である。

この日、おじいちゃんは昔からの知り合いの方をこの街に訪ねた。住所も知らない。知っているのは名前と、何年も前に来たことがある、その記憶だけだ。しかし小さな集落であるし、その人は紙の世界では有名な方、なのだとか。通りを歩きながら行き交う老人の方に道順を聞いて、漸くその家にたどりついた。嬉しそうに突然の訪問客を迎えるその方も御年88歳になられる。しかし至ってお元気そうである。軒先でお茶を頂きながら昔話に花を咲かせていたところ、この方が、「これに俳句を書いてくれませんか?」と短冊と筆を用意して持って来た。おじいちゃんがささっと迷わず筆を走らせると、短冊には、この土地に相応しい、詩が現れた。

「雪解川 命の紙の 詩流る」

この旅の間、おじいちゃんからは仕事や料理や魚の目利きや歴史の話など、とにかく色んな話を聞き、大いに勉強をさせて頂いた。その内容は、しかし遭えてここで書くものではない。

遭えて書き足すとすれば、従兄弟の家で頂いた最高のごちそうのことである。今回思ったこと、それは、日本海と言えば、魚。魚と言えば、何はさておき、やっぱり河豚だなあ、ということ。河豚の旨さは何物にもかえることができない。魚の大様。King of Fish。私の知る限り河豚が食べられるのは日本だけ(中国では食べるかも知れない)。ヨーロッパでは話題にしても、食べることはない。日本で必ず食べなければならないもの、それが河豚だなあ、と思う。それから鮟鱇。鮟鱇は英語でMonk Fishと言って、ヨーロッパでも高級魚として扱われており、私もスペインなどでよく食べたし、家でも料理をしたことがある(但し、ヨーロッパにおいては、鮟鱇漁が底引き網を使うことから環境への配慮であまり食べてはいけない魚、と見る向きもある)。しかし、今回食べた鮟鱇は今までにどれと比較しても、いや比較すらできない程に美味であった(幸)。とくに肝(あんきも)。これはもう、えも言われぬ食感と美味しさである。鮟鱇の肝というと、東京は江戸の老舗の鮟鱇鍋屋でも頂いたことがあるが、全く同じ物とは思えない逸品であった。というか、本当に違うものだったと思う。お店で食べたあんきもは蒸してあった筈だ。今回のは生。それを鍋でささっと火を通して、アツアツで頂いたのだから、もうこれは別物。ヨーロッパではフォアグラは食べてもあんきもは食べない。しかしあんきもはフォアグラより上、と個人的には思う。私もいつか鮟鱇の吊るし切りを覚えたいものです。

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