2010年10月8日金曜日

シーボ。

「うーん、おかしいなあ。やっぱり通じてないよ。Expoぐらい通じると思ったんだけどなあ」。

11時を過ぎて万博行きを決め、ホテルのダイニングを飛び出してタクシーを捕まえたはよかったが、Expoが通じない。

「バンパク、バンパク!」

今度は友人が思い切って日本語でそのまま言ってみる。しかし、やはり通じない。
「やっぱりだめか」。

「うん?え?何?What?」。

「おい、何か言ってるよ、このドライバー。何言ってるのかね?」。

「うーん、ダメだ分からない。よし、こうなったら。これを言ってみよう」。

「プーミンバイ!」

「え?何それ?今何て言ったの?」。

「いや、ミンバイって、確か I understandなんだよ。それに「不」をつけて、プーミンバイ。これで I don't understandで通じてる筈だよ」。

「そうなんだ」。

そうしている間もタクシードライバーが半身で後ろを見ながら、何やらいろいろ言っているが、当然のことながら、こっちは何も分からず、自然とこのプーミンバイが連発されるようになってきた。

「プーミンバイ!」

「おい、何か急にドライバー静かになってきてないか?そのさあ「プーミンバイ」って、表現的に本当に大丈夫なのかな?ただ「分かりません」ならいいけどさあ、なんか「全く意味不明!」とかさあ、そんなニュアンスなんじゃないだろうね」。

「え、それって、何、例えばタクシーの運転手が、「どちらに行きたいんですか?次の交差点は左でいいんでしょうか?」とか言ってて、俺が「全く意味不明!」とか連発してるって状況(笑)?」

それは面白い、と2人で暫し爆笑。

「あれ、ちょっと待て。また何か言ってるよ。うん?シー?シーブ?シーボ。シーボって言ってないか?何だろう?シーボって?ん?ピョウ?シーボ?ピョウ?」

「シーボって、これのことじゃないか、ひょっとして。「世博」」。

「あ、それだ!」

ここ上海では、万博ではなく、世界博覧会を略して世博って言ってるんだ、と納得。

「そうそう!Yes, Yes!」

やっと通じたと思ったのか、タクシードライバーも「うんうん」と頷き嬉しそうな表情だ。しかし、またしても何やら言っている。そして今回もどうやら、「ピョウ」を連発しているように聞こえる。

「ピョウって、、、、まさか、あれじゃない?「票」。チケットじゃない?」

「あ、なるほど!確かに」。

でも、何だろう?チケットを持ってるかって聞いてるのかな?

「No, we don't have the tickets!」

取りあえず英語で言っておく。多分通じてはいなだろうけれども。

「あれかな、ひょっとしてチケット持っている人とそうでない人で、入り口が違うとでもいいたいのかな?あれ、ちょっと待て、何か出して来たぞ」。

「あ、これ万博のチケットだよ?持ってるんだ、このドライバー!」

「いや、ちょっとまて。これ本物って保証はないよ。やめとこうよ」。

「いくらふっかけてくるのかな」。

そういって、まずは値段を聞いてみると、どうやら160ということが分かった。160ということは、このチケットに書いてあるのと同じ数字である。

「あれ。マージンとってないよ、これ。どうする?」。

「160っていうと、いくらだ?2000円ちょっとかあ。うん、ま、ここで買ってみよう」。

そう結論が出た頃には、既に我々は黄浦江にかかる盧浦大橋を渡り終え、万博会場を上から見下ろし、そこに並ぶ300台以上の観光バスが目に入って来たころだった。

「それじゃ、チケット代含めると、全部で350か」

と言うと、友人が止めた。

「ちょっと待った。このドライバーは要領を得ないドライバーだからさ、いきなり350渡したら絶対混乱するよ。タクシー代とチケット代とで2回に分けて払おう」。

そういうと友人が身を乗り出して代金を支払いはじめた。

「For the ride, RMB 30. Yes, yes」

「Okay, RMB 320 for リャン ticket、リャン ticket、いや、リャンピョウ」

いちおう分かるところだけは、中国語を混ぜてみる友人。しかし、こうして支払うと、見事、すんなり済ますことができた。

こうして会場に到着すると、早速入場ゲートまで向かう。果たしてこのチケットが本物なのかどうか。真実の瞬間、と思いながら、電車の自動改札のようなところに通すと、ちゃんと通過することができた。

そうして中に入ってみると、最初に見えて来たのが、赤い大きな伝統建築を思わせる中国のパビリオンであった。

2010年10月4日月曜日

そして上海万博へ。


「さて、今日は何しようか」。

例によって朝食のコーヒーも二杯目に突入した頃、漸くこの日の予定について話すことになったのは、前日の発見について一通りの解釈を終えたあとであった。

「やっぱり中国人のというか、上海人のお金に対する信仰には思った以上のものがある」。

そう友人が言いながら、前日の預園での出来事を振り返る。預園は、1559年に四川省の役人によって造園が開始された2万平米にもなる広大な庭園で、明・清時代の江南式建築を現代に伝える見事な庭園だ。我々は、外灘周辺を歩いた後、タクシーに乗り込んで、このいつ行っても観光客でごった返している有名な観光地へ飛び込んでいったのであった。

「だってさあ、あの沈香閣での線香、皆黄色のやつを選んでたんだぜ。ピンクの方は俺以外には、殆ど選んでる人を見なかったよ」。

確かに黄色い線香で拝んでいる人を多く見かけた。沈香閣は預園エリアにある清代に建てられた廟だ。ここには、2種類の線香(といっても、巨大なものであるが)がおいてあり、購入できるようになっている。参拝者は、これを購入して、火をつけてお祈りをする習慣があるようだが、ピンクの線香は幸運一般、黄色い線香は、蓄財の意味がある、との説明があった。

「これだけお金儲けに皆がどん欲というのは、経済発展にとっては、いいに違いない。やっぱり中国は買いだよ」。

相変わらず続く、この中国が売りか買いかの会話。しかし、その後本当に大量に買い込むこととなったのは、預園の敷地内にある有名なティーハウス、湖心亭で飲んだのがあまりに香りがよく感心した、中国茶であった。

湖心亭は、預園の敷地の池の真ん中に浮かぶティーハウスで、エリザベス女王も訪れた事のあるところ。ここでヨーロッパ人2人を連れて観光していた日本人女性が声をかけてくれて教えて頂いたお茶が非常に美味しかった。

「しかし、あのお茶を教えてくれた人は、万博に3日間も通うって言ってたね。すごいよね」。

我々はこの時期に上海に行く事にしていたものの、万博に行く確実な予定は特段なく、通常なら万博チケット付きのツアーで日本から行く人も多い筈だったが、我々は当然ながらチケットはなし。もちろん、出発前に「上海にいくんだ」「あ、万博いくの?」という会話は少なく数えても、10回ぐらいはしていたと思う。「いや、多分いかない」という反応に「え?いかないの?」と皆一様に驚くものの、「でも、丸一日つぶして万博行きたいと思う?」と聞き直すと、「そうは必ずしも思わないけど、話のネタにはなるよね」、という返答がよく返ってきたものだった。ま、その程度の思いしかなかった我々からすると、三日間もかけて万博を回ろうというこの観光客がにわかに信じがたい気持ちになっていたのである。

「今日は何しようかね?」

「その前にさあ、あと残り3日間の予定の全体イメージを考えようよ」。

「え、もうあと3日?」

「だって、昨日は外灘と預園と新天地にいって、今日なわけでしょう?そしたらあと3日だよ」。

「そうかあ、もうあと3日かあ」。

全体で4日間しかない割には、あと3日というのがえらく短く感じる。

「そうだねえ。上海は昨日一通り見た感じがするしねえ。この後は、やっぱり一日は上海の郊外の蘇州あたりにでも足を伸ばすとして、一日はやっぱり金融機関を訪ねていろいろ調べてみたい。となると残りはあと一日だなあ」。

「一日はお土産を探すのにちょっとだけ買い物がしたいなあ」。

「そうなってくると、万博は、、、、やっぱり無理かあ。とりあえず、今日は郊外にいかないか?」。

「そうだなあ。でも郊外に出るなら、朝早く行った方がいいんじゃないか。今日はもう、、、11時だよ」。

「となると、浦東の金融センターに行って、金融機関巡りでもするか。ディナーも今日は浦東地区の予定だしね」。

その日の晩は正味4日間の上海滞在の中で、唯一あらかじめ予定が決まっていた晩で、上海に居る同僚や社外のコンサルタントの知人に集まって頂いて一緒に中華の円卓を囲むこととなっていたのである。

「やっぱりさあ、今日、これから万博いかない?」。

突然、友人が言い出した。

「だってさあ、今日の晩は皆で食事だろ。今日は何したの?て会話に絶対なるしさあ、その時に銀行行ってましたじゃ、つまらないよ」。

「そうだね。今日はこれから万博へ行こう。よし、今すぐに出よう」。

こうして、上海滞在の二日目の昼から万博へ行く事が決まると、すぐにモーラービラホテルのダイニングを飛び出し、陜西南路(シャンシーナンルー)の通りに出ると、タイミングよく延安中路を右折して曲がって来たバンタイプのタクシーを捕まえることに成功した。

「To Expo, please. The World Expo!」。

タクシーのドアを締めるや否や、すぐさまタクシードライバーに告げたのであった。

2010年9月27日月曜日

上海人は前しかみない。


「うわっ。すっごい人だわ、ここ」。

さすが上海一の目抜き通りだ。人民広場から南京東路に出てくると、完全歩行者天国の通りを挟んで両側にあらゆるお店がならび、夥しい数の歩行者が通りを行く。

「あ、危ない!」

通りを行くのは歩行者だけではない。なんと、歩道の上を、トラムが後ろから迫ってくる。しかも、ベルすらならさずに、人ごみの中を目がけて突っ込んでくるではないか。

「うわ、全然よける気配がないぞ。逃げろ!」。

慌てて脇にそれると、観光客をのせたトラムが何事もなかったかのように進んで行く。そしてその先々で人がそれをまたよけて行く。しかし誰も驚いた様子はない。これが日常なんだろう。

「おおぅ。ユニクロだ!こんな中心に店出してるんだなあ。ちょっと入ってみようよ」。

そういって、我々はユニクロを覗いてみることに。しかし我々は何もユニクロで買い物がしたい訳ではない。ユニクロなら東京で行けばいい話である。ここでは、商品や価格、そして店の雰囲気が見たかっただけだ。

「ほほう。なるほど。見て、これ、シャツが200元だよ。ということは、、、。日本円に換算すると、約3000円。こっちの水準で考えたら、決して安くないなあ。ていうか、高級路線だろ、完全に」。

「売れんのかね、これ。これだけの人通りにしては、店の中はあまりお客さんが入ってないなあ」。

「しかし、これで爆発的に売れた日には、株は間違いなく上がるよ。しかしそのためには、今後の中国の内需がどれだけ拡大していくかが重要だなあ。だって、これじゃやっぱり購買層は限られてくるよね」。

そんな事を口走りながら、店の中を一回りしてから外に出た。

おい、青なのに。あ、危ない!」。

店を出て河南中路との交差点に出たその時である。信号とは関係なく、もう歩行者もバイクも車も皆前だけみて交差点に突っ込んでくるではないか。

「上海人は前しかみない」。

しかしそれは何も交差点だけに限った話ではないのかも知れない。ひたすら前だけを見て、突っ込んで行く。周りの人の事などおかまいなし。とにかく自分の行きたい所に向かって突き進む。それも強烈に。怪我をしたくなければ自分でよければいいのだ。いちいち相手を気遣っている暇はこっちにはない。上海一の目抜き通りを行き交う人達のそんな姿勢が、上海人の生き方そのものを象徴しているかのよう。そんな事を思ったのは、しかし上海の滞在も終わりに近づいた頃だっただろうか。この日はまだ、この当たりの強い上海の空気に漸く慣れ始めたぐらいの段階だった。

「この先をまっすぐいったところが、サッスーンハウスの筈だ」。

サッスーンハウスとは19世紀にアヘン貿易で巨富を築いた上海の支配者サッスーン一族が建設した建物で、当時東洋一の建築物との異名をとった壮大な建築。緑のピラミッド上の屋根が目印だ。

「せっかくだから中に入ってみよう」。

サッスーンハウスは当時アヘン貿易で東洋一の財閥となったサッスーン商会のビルでもあり、最上階はサッスーンの住居でもあった歴史ある建物であるが、今ではここはホテルとなっている。

「うわっ」。

ロビーに出ると、そこは目もくらむようなまばゆい空間。

「うわっ。これ、ひょっとして本物の銀じゃないか?」

ロビーの四隅には、サッスーンハウスから見られる上海の景色が巨大な銀の彫刻で表現されている。

「いやあ、これはすごい富だったんだなあ」。

上海が開港させられたのは、1842年のアヘン戦争の結果であった。当時イギリスは、というかイギリス東インド会社は、既にインドを支配下におき、中国との間で三角貿易を行っていた。産業革命を果たし世界の工場となったイギリスで生産した綿製品をインドへ輸出。中国からは、お茶、シルク、陶磁器、などいくらでも買いたい物資にあふれていたが、逆に中国には輸出できるものがなかった。そこで中国との貿易を銀で決済していたため、どんどん銀が中国に流出して困っていたのである。そこで目を付けたのがインドのアヘンだった。これを中国に持ち込んだのである。このアヘン取引を牛耳ったのが、サッスーン一族である。そしてこのアヘン貿易の決済のためにサッスーン一族と同じくアヘン貿易で巨富を築いたジャーディンマセソンが設立した銀行が、HSBC銀行だ。

アヘン戦争の結果上海は開港させられ、そして黄浦江の縁、外灘に最初の英国租界ができ、不平等条約のもと、一攫千金を求める様々な人がこの上海の一角になだれ込んで行った。長崎のグラバー邸で有名なトマスグラバーもその一人だ。当時上海は何でもないただの漁村だったのが、列強の進出とともに、ここに混沌とした世界が突如生まれることになったのである。英国の次には、アメリカ、フランス、ロシアが租界を設けた。そして数々の西洋建築物を建てて行ったのである。このようにして、当時の上海は東洋一活気のある街となった。そしておそらく、中国の共産革命まで、その繁栄は続いていたに違いない。今でこそ、東京の方が洗練された都会だと言えるかも知れないが、戦前は圧倒的に上海の方が大都会だったのは間違いないだろう。そしてその大都会は近代の日本の知識人達も惹き付けた。

「しかし、経済発展て一体なんなんだろうなあ。だってさあ、このどん欲で周りを気にせず前だけをみて突き進む中国人の資質なんて、4000年前も今も、アヘン戦争の前もその後も、革命の前も後も、きっと変わってないに違いないんだ。それなのに、経済の波はこれほど極端に押し寄せては引いていき、そしてまた怒濤のように押し寄せている」。

「結局、資本がどれだけ投下されたか、というのが大事だということなんじゃないかな。とにかく資本主義経済においては、経済発展とはすなわち、その地域に循環するマネーの量を言っているに過ぎないわけだろう?GDPってのは、要するに、その土地でどれだけのマネーが動いたか、ということなんだし」。

「となると、今の中国に実力以上のマネーが集まり過ぎているのか、それとも実力が追いついてきているのか。この辺もポイントになるわけだなあ。しかし、見た感じやっぱりバブルな感じはあるけどね」。

強い日差しの中を少し歩いたせいもあってか、外灘のカフェで飲むビールがひときわ美味しい。

「さて、外灘もざっと一応見てみたし、次はどうしようかね」。
「少し裏道も歩いてみて、そこからお茶でも飲みにいくか。中国の茶室に行ってみよう」。

そうして向かった先は、預園だった。

























2010年9月23日木曜日

朝食から始まる上海の一日


「いやあ、やっぱり上海はすごいね」。

旧イギリス租界のバンド(地区)は中国語ではワイタン(外灘)と呼ばれる。上海一の目抜き通り、南京東路を右に折れると、この通り周辺こそが外灘。河(黄浦江)に沿って500mぐらいの細い一帯に、壮麗な西洋式建築が並ぶ景観は、圧巻だ。

我々は、この外灘を5ブロック歩いたところの角にあるビル、外灘3号に入って行き、ジョルジオアルマーニの基幹店の中を通ってエレベーターに乗った。

「ガイドブックによれば、確かここにカフェが入っている筈だよ」。

しかしエレベーターのボタンにはカフェらしき案内がない。(一体、何階なんだろう?)。エレベーターに飛び乗るも、階のボタンを一向に押さずにそわそわしている我々に、他の乗客が怪しい視線を向ける。狭いエレベーターには、他に5人の西洋人の女性達が乗っていたのだ。(この人達、一体誰?)。ほんの一瞬気まずい空気が漂ったその瞬間、彼女達がフランス語で何やらひそひそ話を始めた。何を言っているのかは聞こえないが、フランス語であることははっきり分かった。我々の事を怪しんでいるのだろうか?

Est-ce qu'il y a an cafe? (カフェって、ここにありますか?)。

Sept. (7階よ)。

とっさに昔勉強したフランス語が口をついて出てきた。こういう時は何か会話をした方がお互い安心するというものだ。しかも自分の国の言葉であれば尚更であろう。

7階につくと、そこはNew Heightsというお洒落なダイニング&バーであった。テラスに出ると、河(黄浦江)の東に広がる現代の金融センターの超高層ビル群と西に広がる19世紀の金融センターの西洋建築街が一望できる壮観な景色が目の前に広がった。

「いやあ、本当にすごい」。

上海は仕事では何度か行った事があったが、一緒に行った大学時代からの友人にとっては初めてであった。かといって、今回我々に特別な計画があったわけではない。

「取りあえず、今日は市内を歩いて回ってみようよ。まずは人民広場からメイン通りを通って外灘あたりがいいんじゃないかな」。

地図を見ながらやっとその結論に達したのは、その日の朝、ホテルで朝食を食べ始めて2杯目のコーヒーを飲み終えたぐらいの時だった。それもどちらかと言うと、ダイニングルームの終了時刻11時を回ってなお、のんびり話し込んでいる我々2人を何とかしようと、従業員が一斉に片付け始めたからだったと言ってよい。

「それにしても、このホテルは正解だったねえ。上海の騒々しい中心地にほど近いのに、ここだけは嘘のように静けさがある」。

実は、ホテルを決めたのは、上海出発のなんと1日前だった。というのもリサーチと話し合いに5日間ぐらいかかったためであり、特に最後の3日はほぼ徹夜に近い状態だった(笑)。そうして決めたのが、ここMoller Villa Hotel。19世紀から20世紀にかけて上海で活躍したユダヤ人の富豪、Eric Moller氏の邸宅を改築してホテルにしたものだ。洋館といえば洋館であるが、Eric Moller氏が娘さんのために建てたメルヘンチックな建物であり、一見お城のような独特の外観が特徴。しかし一歩中に入るとアンティーク家具に囲まれた空間が落ち着いた雰囲気を醸し出し、都会の喧噪を一気に忘れさせてくれる。ここのダイニングルームはまさにそのような空間だった。

「いやあ、本当、苦労して探した甲斐があった」。

上海での4日間の過ごし方は、全てその日の朝、このダイニングルームで朝食を食べて、コーヒーを飲みながら決めることとなり、その結果としてどの日も豊かな時間を過ごした事は間違いのない事だった。しかしながら、この毎日の朝食の時間そのものがまず非常にリッチな時間であった。朝食の時間には、その日の予定以外にも、ここで前日の振り返りをしながら、小さな発見を共有したり、どんなインスピレーションを受けたかを勝手気ままに披露したり、更には、中国の文化経済習慣について、仮説を言いながら大いに議論を繰り返した。それによって、見聞きしたつぶつぶの事象を繋ぎ合わせ、点が面になっていくように、いろんな事が整理されたように思うのである。

そんな風に朝食の時間を過ごした後、最初に出かけて行ったのが、外灘だったという訳である。

2010年9月6日月曜日

バイオリンリサイタル@静岡


「静岡までバイオリンのリサイタルを聞きにいかない?」。それは世界各地でクラシックに親しんで来た国際金融マンK氏のお誘いによるものだった。リサイタルは日曜日。ならば前日から静岡に入って、いろいろ見て来よう、ということで土曜日の12時に東京駅で待ち合わせ、新幹線に乗り込んだ。東京から「ひかり」でたったの一時間。静岡駅に降り立つと、観光案内所によって地図を何種類かもらったのち、すぐにレンタカーを借りにいく。前回K氏とレンタカーの旅をしたのは、2006年のセビリアだったと思う。その時も予約なしで車が借りられたように、今回も問題なく借りることができた。しかし、車はあっても目的地は決まっていない。そこで「まずどこかで地図やガイドを読み込もう」(笑)、ということで、向かったのがここ、日本平。標高308メートルのこの丘からは、清水の港町と澄んでいれば富士山がきれいに見える景勝地だ。ここ日本平ホテルのカフェにてこの素晴らしい景色を見ながら、静岡のことをしばし勉強。といっても、K氏の場合は、単に駅の観光チラシに目を通すだけではない。ホテルの人に日本平の歴史について尋ねてみたり、お茶を飲みに来ている周りのお客さんの会話にも少しだけ耳をそばだてるなど、カフェに居ながら集めてしまう情報量が半端ではない。そしてそれら断片的な情報を自らの仮説でつないでいく。テーマは、静岡の政治経済から静岡での生活、人生観まで、いろいろ勝手な意見を言い合う事、約1時間。しかし一貫して検討対象となっていながら、これといった答えの見つからなかった最大のテーマは、「今晩どこで何を食べるか」であった(笑)。

しかし、その答えは思わぬところで見つかった。それは、久能山東照宮をお参りした時に閃いたのではなく、また初秋の風を受けながらロープウェイより屏風のような切り立つ山々を見た時でもない。それは、日本平の丘をおり、清水の次郎長の船宿跡を出たときであった。

「あ、魚屋だ」。

次郎長の船宿跡の2軒となりに、山七という鮮魚屋があった。「魚のことなら、魚屋に聞くのが一番だ」そうつぶやくと、K氏が店の中に入って行く。実は、ここにたどり着くまでに、既に複数の人に「お勧めのお店」あるいは「お勧めの料理」をヒアリングしてきた。しかしながら、「そうですねぇ、ドリームプラザの回転寿司なら、まあリーズナブルでネタもいいですが」「お隣のお寿司も結構いいと思いますよ」といった返答で、歯切れがいまいち。しかしあまりもう時間もかけられない、ということで「じゃあ、回転寿司にでもいってみるか」と半ばあきらめかけていた時だったのである。

「この辺で美味しいお魚食べられるところって、どこですかね?」

K氏が聞くと、「そりゃ、たから屋だよ」。店の奥から、こちらの顔も見ずに、しかし間髪入れずに返ってくる答え。これには確かな手応えがある。(「この人達は旨いところを知ってるぞ!」)。K氏の目の色が変わる。店の奥から清水区の詳細な地図をひっぱり出させて、入念に場所を確認するK氏。そして我々はこの店にたどり着いた。

「いらっしゃーい」。

のれんをくぐると、そこには一本の木からできた長いカウンター席が8席ほど。テーブル席も少々。あとは二階に宴会席があるようだ。年期の入った内装だが、全体に清潔感が漂っている。カウンターの裏には黒板に手書きのメニューが。値段は書いてないが、魚の産地がちゃんと書いてある。そしてカウンターの上には、塩水につかったトコブシが。いかにもいいモノが出てきそうな雰囲気でいっぱいである。

「山七さんに聞いたら、ここに行けって言われたもんで」。

「これお通しです」と、まず出て来たのが、カニ味噌ののった冷製茶碗蒸し。いきなり旨い。「もう一つ、海産物の盛り合わせのお通しがあるんですが、出させてもらってもいいですか?」「はい、はい、是非」と、期待を込めていうと、その期待の3倍ぐらいのものが出てくる。

「ここはすごいぞ」。

これでK氏に火がついた。お通しで既にビールを飲み干していたK氏は、「つぎは日本酒で」と地酒の純米酒「臥竜梅」に切り替え。「1号と4号瓶がありますが」「それじゃ、4号で!」。大きなボトルが出てくると、K氏がコップになみなみとつぐ。

「お客さん、今日はいい赤陸奥がはいってますよ」。

「それいきましょう」。

しばらくすると姿造りで赤陸奥が登場。「えー、これが刺身。油乗っててうまいですよー。あとこっちが多少あぶったやつ、こっちのが肝と皮で、これはポン酢で召し上がってください。あとはあらを味噌汁にしますんで」。

「うわっ。すごい」と言いながら、まずはお刺身から。わさびも本わさびで、全く手抜きがない。「うま」。「いや、ここは正解だったね」。あっと言う間に赤陸奥を攻略した後は、更に鯵のたたき、生シラスの軍艦、メギスの天ぷら、、、と次から次へと地の物を楽しむことができたのであった。

翌日は朝早めのスタートで、今度は海岸線を西に車を走らせることとした。この辺の駿河湾の海岸線には、テトラポットがずっと並んでいて、時折強い波が打ち寄せている。久能街道沿いには、いちごのビニルハウスが並び、「いちご狩り」の看板が立ち並ぶ。しかし、今はそのシーズンではない。人が殆ど見られない。東照宮の入り口付近が少し観光地っぽくはなっているが、寂しい感じである。安倍川のあたりまでくると、国道が内陸に少し入る。「少し住宅地っぽくなってきたね」。しかし今度は街道沿いに大型店が立ち並ぶ、日本でこれまたよく目にする風景となってしまった。こういう所には、2人とも全く興味が湧かない。そのまま関係ない話をしながら素通りして、結局「魚のまち」の接頭語に惹かれて焼津の漁港に行ってみた。

「なるほどね」。

焼津では、静岡名物の黒はんぺんと桜えびを食べながら、朝のコーヒーを飲んで、静岡市街へ戻ることに。そのまま今度は市街をぐるっと回って、駿府城後の県庁や市役所の集まる新市街に車を停めて、今度は歩いて散策。まずはメインのデパートの人の入りなどをチェック。そしてショップの様子などを見て歩く事に。しかし、2人とも全く買い物には興味がない。街の雰囲気を見るだけである。

「うーむ、やっぱり静岡って、銀行と役所なのかね」。

市街の一等地で圧倒的な存在感を見せるのは、県庁、市役所、区役所のお役所と静岡銀行であった。旅のメインのコンサートを前に、もうすっかり静岡をエンジョイし切ってしまった感があったが、間違いなくここからが旅のメインイベントであった。このバイオリニストはとても素晴らしく聡明なプロの演奏家で、これまでに東京で2度リサイタルの機会があった他、以前は欧州やモスクワでもご一緒する機会があり、プロの音楽家の感性をよく教えて頂いていた。とくに印象に残っているのが、「音色に演奏家の性格が現れる」ということだろうか。とにかくこの日もとても素晴らしい演奏で静岡の旅を締めくくる事ができた。

2010年8月22日日曜日

山登り@棒の峰

昨日は友人5人で埼玉県名栗村に山登りにいった。ここは、1,000メートル弱で初心者向け。沢伝いに登るコースはマイナスイオンもたっぷりで、非常に気持ちよく登れる素晴らしいコースだ。この山を登ることになったきっかけは、自分が以前よく登山に連れて行ってくれた友人の法律家Iさんに「また、行こうよ」と言ったのがきっかけで、いつもながIさんが全て計画してくれたものである。自分としての登山の楽しみは3つあって、一つは皆で一緒に登る楽しみ、二つ目は、登ってご飯を食べる楽しみ(笑)、三つ目は、降りて来て温泉につかる楽しみだ。今回はこの三つが全て満たされる山登りとなった!

今回はIさん夫妻の他、以前潮干狩りでもご一緒したCさんとCさんのご友人で都市計画を行っているYさんと初めてご一緒したが、普段あまり聞く事のできない建築や都市デザインの話を道すがらたくさん聞く事ができた。

さて話をしたり写真を撮ったりしながら登り初めて3時間で頂上に到着してお昼に。山登りした時のご飯は本当に美味しい。今回は、前日にサンドイッチをつくっていったが、昔オランダでダンスの大会前日の夜によくサンドイッチを作ったのが思い出された。お昼時にCさんが持って来てくれた冷凍パイナップルを皆で頂いたが、これが素晴らしく身体にしみいるような旨さであった。

下山はそれほど消耗しないかと思ったが、すべって危険な沢コースをやめて、冬登山コースを降りたところ、これが思いのほか急で非常に疲れたが、その分下山後の温泉が格別であった。

名栗村は、登山だけではなく、そもそも景観が素晴らしく、麓のまたキャンプ場では多くの家族が沢遊びに興じていた。「さわらび温泉」も居心地がよく、一日遊ぶのにはとてもいい場所であった。

2010年6月22日火曜日

クミコ ー あるシャンソン歌手について

先日、東京国際フォーラムで行われた「クミコ」のコンサートに行った。クミコは、シャンソン歌手として良く知られていて、特に松本隆氏との出会いをきっかけに近年ファンが急増している。最近では、「祈り」がYUSENで総合一位にもなっている実力派の歌手だ。

前回クミコの歌を生で聞いたのは、もう7年以上前の事で、当時は、確か渋谷か恵比寿の小さなライブハウスだったと思う。歌というものをよく知らなかった当時の私は、このライブによって、歌を歌うという仕事が、限りなく創造的なものになり得るものだ、ということを初めて悟ったのであった。一流の芸術というものは、いや、それは芸術以外の何であったとしても、一流であればある程、どんな素人にもその素晴らしさが必ずや伝わるものだと思う。クミコは間違いなく、技術と長年の経験を兼ね備えた、一流の歌い手だ。

しかしながら、そのような実力や今浴びているスポットライトとは対照的に、クミコという歌手は、歌手として活動を始めてから、実に20年もの間、(興行的には)華々しい成功とは無縁に、小さなライブハウスで実に細々と歌い続けて来た経歴がある。成人してプロとして生きる道を決めてからの20年というのは、気の遠くなる程、長い時間である。その20年の間のクミコの道のりに、一体どれ程の苦労や絶望が、あるいは、そこにどれだけの希望の光や喜びがあったか、それを知ることはできない。しかし、自分の歌を聴きに来てくれるお客さまに勇気づけられ、最後はどちらかというと希望よりも、むしろ「自分には歌うことしかできない」という開き直りと覚悟で、それこそ人生を懸けて、歌い続ける毎日だったのではないかと想像する。そして自分と真剣に向き合う中で、自分が歌うべき歌を自覚し、その歌に表れた心を、ひとつひとつ丁寧に語りかけるように歌ってきたのではないだろうか。ライブハウスで聞いたクミコの歌に、鋭い創造性と迫力を感じたのは、きっとこのような背景があったためだろう、と私は考えるのである。

さて、そんな数年前のライブハウスでの経験を今回再び体験できるのか、といった期待をうっすらと持ちながら足を運んでみると、当たり前の事ながら、手を伸ばせば届きそうな小さなステージでピアノとアコーディオンだけを伴奏に歌っていたライブハウスと、東京国際フォーラムでのコンサートは、全く持って別のフォーマットのものであった。それはフィレンツェの路地裏の小さな食堂のコックがエノテカピンキオーリの厨房を仕切るシェフになったようなものであって、同じアウトプットを期待することなどできる筈がない。いや、むしろ全く同じ料理を出してはいけないのである。しかし場の設定が大きく変わるからこそ、そこで人がどう変わるのか、そして何が変わらないのか、そこにその本人の生き方があらわれるものだろう。

そういう意味で、今回のコンサートでは、まさに設定が変わっても、本質は何一つ変わらないクミコの歌手としての地に足のついた生き方が、一貫して見られるパフォーマンスだった。むしろ、以前よりも多くのオーディエンスがいることを踏まえて、クミコとして歌わなければならないことを増幅させたのではないだろうか。それが、「反戦」の思いである。

「一本の鉛筆」

もちろん、今回のコンサートは「INORI〜祈り〜」がテーマであって、これ自体が佐々木禎子さんが主人公の平和反戦の歌であることから、反戦の歌を基調としたプログラムとなってもおかしくはないだろう。しかし、クミコにとっては「祈り」という歌が先に来て、それから反戦の歌を歌う歌手になったのではない。その逆だ。

「INORI〜祈り〜」

クミコは、これまで人の愛を歌ってきた歌手である。それを考えると、その対局にある戦争への批判に結びつかないことはない。しかし、私には売れっ子になったクミコが、個人の愛から極めて政治的な戦争を相手にするようになったことに、少しばかりの不協和音を感じなくはなかった。いくら聴衆が増えたと言っても、何もこの平和ぼけした不況下の日本において、反戦を歌わなくてもいいのではないか、そういう思いもあった。しかし、どちらかといえば、それよりも、クミコの歌手としての時間とエネルギーの使い方、言ってみれば、投資効率が悪くなるのではないか、という感覚だったと思う。クミコは個人の愛を歌うことによって、それを聞く人に大きな感動を与えることができる。しかし、クミコが反戦の歌を歌っても、そんな事では戦争はなくなることはない。ほんの一瞬、それが頭をよぎった。

そういうことを感じながらコンサートは後半に突入。後半は、「わが麗しき恋物語」、「愛の讃歌」、などおなじみのシャンソンのナンバーが続く。そして、私と一緒にいってくれた人が、迫力があってよかった、と言ったのも後半のこの歌だった。

「百万本のバラ」

そして最後は「ラストダンスは私に」をUpbeatに、そして女性の多面的な顔を表現しながら歌って、コンサートは終了、そして、アンコールに。そこで最後に出て来たのが、再び反戦歌の「さとうきび畑」であった。

http://www.youtube.com/watch?v=tyB9z2C98tM

「ざわわ」で始まるこの歌は、本当に芸術的で素晴らしい作品だ。さとうきび畑以外何もない平和な沖縄の土地に、なぜ武器弾薬が降り注ぎ殺戮が繰り広げられなくてはならなかったのか。「戦争」のとてつもない愚かさ、そしてどうしようもない悲しみ。これが本当に鋭く突き刺さる。私はクミコがこの歌を最後に歌うのを聞きながら、さっき思ったことが間違いだったと気がついた。そして、このような反戦の歌をクミコが歌うことによって戦争をなくすことはできない、ということを一番よく知っているのは実はクミコ本人ではないか、と思った。それを知ってなお、そこに身を投じて反戦の歌を歌う。できないと分かっていて、それを行い続ける人の思いの強さ、誇りは、できる事だけをやる人、あるいはできると分かっているからやる人のそれを、遥かに上回るだろう。

「ひょっとしたら、本当にこういうことで戦争がなくなるのかも知れない」。最後にそう心の中で思うと同時に、名声を得てなお、自分を見失わないクミコという歌手に、背筋の伸びる思いで、会場を後にしたのであった。